2013年08月31日

最もたいせつな戒め マタイ22:35〜40

2013.8.31 TPC東京プレヤーセンター

みなさん、こんにちは。
今日は、またまた岩井家庭集会の皆さんもおよびして、勝手に合同礼拝にさせていただいております。
今、家庭集会の方では第2列王記、預言者エリシャの時代になっておりまして、そこからメッセージをしようかな…と思ったんですが、どうも、今ひとつ、インスピレーションがわかないんですよね。。
正直、語りたくないな…というか。
伝道師がこんなことを言っていいのか、わかりませんが…(笑)

イスラエル史上最悪と呼ばれる女帝、イゼベルが君臨し、預言者エリシャによって立てられた新たな王、エフーがそれを打つ…。
では、そのエフーはというと、結局は、神様から離れてもいってしまうわけです。

そこから何を語るのか…って言うと、何か、ちょっと違和感を感じずにはいられなかったんですよね。
もちろん、第2列王記も聖書、神のことばです。話そうと思えば話せなくはないし、学ぶべきことはあると思います。

でも、それよりも、何よりも、単純明快、私たちが一番大切にしなくてはならないことは何か、聖書が神様が最も伝えたいことは何か、もう今日のこの箇所に尽きてしまうと思うんです。

マタイ
22:37 …「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒め…
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
「この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのです。」

マルコの福音書では、
「この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

いずれにしても、この2つの戒めが、聖書全体、一番大事、もっともたいせつな戒めと言って問題はないと思います。
戒め…というと、ただ私たちが守るべき命令かのように捉えてしまいがちかもしれませんが、私たち人間が愛し合ってほしい…これが神様の一番の願いであるわけですよね。

ちょっと調べてみたところ、第2列王記には、あくまで単語としてですが「愛」と言うことばが一つも出てこないんですよね。

もちろん愛が、全くなかったわけではないと思います。
でも、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…「私たちが愛すること」、これが最も大切な戒め、最も大切な事柄とされてこなかった時代、歴史、これが第2列王記といえるのかもしれません。
そもそも律法自体が忘れられていましたから無理もないのですが、結果、イスラエルは衰退の道を歩んでいったわけです。

では、私たちはどうでしょうか。。

もちろん、愛がないわけではないと思います。
ここに集っている皆さんは、確かに神様を愛してらっしゃると思うんです。
だから、こうして集まって、礼拝したり、賛美したりもしますし、お互い助け合ったり、祈りあったり、交わりも持つと思うんです。
ですが、それを承知で、あえて尋ねるんですが、
本当に、みな等しく、的確に、隣り人を愛せるか…というと、なかなかどうして、実は、私自身も含めてできていない、足りない、失敗も多いと思うんですよね。

この愛は愛でも、キリストの愛だったりするわけじゃないですか。
汝の敵を愛せよ。迫害するもののために祈れ。
人がその友のために、命を捨てるこれほど大きな愛はない…
聖書の愛は、無限大なんですよね。

ちなみに、この2つの戒め、私は100%完璧に守れています…という方、いらっしゃるでしょうか。

はい、誰もいません。

よかったです。
これで、できてます…と言われちゃうと、この先、どう話していいか、わからなくなってしまうんですが、私もできているとは、お世辞にもいえません。
100%完璧にできているのは、誰もいないはずなんです。
もし、いるとしたら、イエス様だけです。

ですが、ちょっと注目して欲しいんですが、ここでイエス様は、隣人を愛するということは、神様を愛することと同じように大切な戒めだとおっしゃっているんですよね。。。

この2つの戒め、言うなれば、最高法規、憲法みたいなものですよ。
もし、この2つの戒めが守れていない…、ここから外れていたとしたならですよ。

その他、多くの部分で、どんなに聖書に忠実だったとしても、どんなに見た目、立派な働きをしたとしても、聖霊様から、どんなに、すんばらしい賜物いただいたとしても、それで優れているとか、それが正しいなんてことにはならないはずですよね。。
早い話、憲法違反なんですよ。

…の、割にはですよ。
この2つの戒め以外の部分で、あれこれ優劣を付けたり、批判しあったりしてしまうようなことが、皆さんとは言いませんが、実際問題、正直な話、キリスト教会の中では、あったりするんじゃないでしょうか。。

いいんですよ。
ぜひ、ここは、正直であって、欲しいんです。
正直、キリスト教会、私たちの間にはあり…ますよね。。?

22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

この質問をしてきた律法、聖書の専門家は、イエスを試そうとして…と書かれています。
彼らは、聖書を徹底的に調べ上げて、徹底して律法に反しないような生活をする、プロ中のプロだったわけですよね。
それで、神様を愛している…、さらには律法に定められた隣人愛も行っていると思い込んでいた人たちだったわけです。
でも、それで律法を守っていない罪人たちを見下したり、非難したり、裁いたり、逆に、そんな罪人を赦していたイエスを敵対視、実際、揚げ足をとろうと試していたわけなんですよね。

人のふりみて、我が振りなおせ…なんです。

果たして、今日の教会で、また自分自身にとって、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…この3つの愛が、他の何よりも大切な戒めとして、本当に、今、私たちの目標として、私たち自身、私自身のうちに掲げられているでしょうか。。。

ここは、気をつけて欲しいんですが、決して、できていないから、駄目…ではないんですよ。
誰かを否定、非難することではないんです。

ここが律法主義と、キリストの福音の分かれ道なんです。
律法主義では、律法を守らなければ、神様に愛されない、裁かれる…と考えますから、他人を裁くがゆえに、自分の落ち度や、できていないことを認められなくもなっていくんです。

キリストの福音では、できていないものは、できていませんと認めていい世界なんです。

なぜならば、そんな不完全な私たちを赦すために、キリストは十字架を背負い、私たちのことを愛してくれているんですよね。

22:37 …「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

この生き方、この愛を、100%実現したのは、イエス様だけ。
実に、そんなイエス様の愛によって生かされているのが、私たち、クリスチャンなんです。

できていないから、駄目ではなく、できていないにもかかわらず、愛されているからこそ、私たちも、この3つの愛を目指すんです。

書かれた当時、小学校1年生の作文があります。

「おかあさんのたからもの」

せんせい あのね
おかあさんのたからものはね
ぼくだって

おかあさんのたからものは
ぜったい ゆびわだと
おもって いたけど
ゆびわは 2ばんめだった

ぼく
たからものになっちゃってこまるよ

たからものって
はめたり つめたり
かけたりするものなのに
でも
なんか いいきぶん

ぼくは
そとへでて はしりまわったよ


…なんだか、かわいらしいというか、いいですよね。
大人になるにしたがって、宝物だといわれても、こうも純粋には受け止められないというか、そうは単純に喜べないような気がします。それだけ私たちは、多くの傷も受けてきたのかもしれませんね。
しかし、愛が喜びを与え、心にどんな変化をもたらすか、その気分は、よくわかると思います。

どれだけのことができるか、どれだけのことをしているかは問題ではないんです。
この小学生の作文ですが、ただ愛されていることを喜んでいるだけなのに、私達の心にまで、何か暖かなものを与えてくれていますよね。

イエス・キリストに愛されていることを喜んでいるお父さんがいる、キリストに愛されて喜んでいるお母さんがいる、子供がいる、仲間がいる、それだけでも実は周囲に何かを与えているんです。

神様の宝物はね、ぼくだって
神様の宝物は、絶対イエス様かと思っていたけど、僕だった

ぼくは外に出て、走り回ったよ!

 本当に、外へ出て走り回りはじめたら、逆に心配されますんで、やめといた方がいいかと思いますが、イエス・キリストに愛されている喜びこそが、クリスチャンにとっての最大の原動力であり、原点です。
礼拝や賛美、クリスチャンの愛も、すべてこの感動から、湧き出るものです。

愛するって、単なる行為ではなく、心が伴うものですよね。
ですから、単に「愛しなさい」と言われるだけでは、できないんですよね。愛するためには、愛されることも必要なんです。

今、巷では、体罰やいじめ、家庭内でも幼児虐待、様々な悲しいニュースが流れていますが、必要なものは、なんでしょう。
「体罰はいけない」「いじめてはならない」…という律法や処罰でしょうか。
それとも、愛されている喜び、愛する心、愛そのものでしょうか。

日本では、年間3万人の人たちが自ら命を絶っています。
必要なものは、何でしょうか。やっぱり愛です。

東日本震災では、多くの人たちが津波に巻き込まれ、命を落としました。
誰かを亡くした深い悲しみや傷…、そこに慰めや癒しを与えてくれるものは何でしょうか。。。
やっぱり、愛です。

22:37 …「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

これが、もっとも大切な戒め…、
これが律法、聖書全体、預言者。これがメッセージです。

これこそが、私たちを創られた神様の、最初からの願いです。
イエス様は、できない私たちをも愛してくださいました。
聖霊様も、このためにこそ、私たちのうちに宿り、働いてくださっているんですよね。
この戒めを実行可能にしてくれるのも、神様の愛です。

人は変えられませんから、まず自分自身からです。

私たちはどこまでも不完全、完璧はありません。
失敗することも、愛せないことも、まだまだ、いっぱいあると思います。
しかし、けれども、にもかかわらず、
こんな私をも、キリストが愛してくださっているというので、
自分なりに、自分らしく、
神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…
この3つの愛に生きる。

神様の宝物はね、ぼくだって。
あなたです。私です。

神様の宝物は、絶対イエス様かと思っていたけど、ぼくだった

ぼくは外に出て、走り回ったよ!

できないものであるからこそ、まず自分自身が、神様の愛を感じ取りながら、3つの愛を表せていけたら、いいですよね。

…イエスは彼に言われた。

「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

マタイ 22:36〜40



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2013年08月07日

1人のために…

「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか…。」
ルカ15:4

ここしばらく、ちょっと掲載をお休みしてました。

いろんな出来事があったんですが、その中でもショックだった出来事の一つに、高校時代の友人が突然、行方がわからなった事件がありました。
釣り好きということもあって、地元静岡の友人たちが懸命に探したのですが、どうやら事故ではなさそうです。

奴なりに悩みもあったのかもしれないな〜と、少なからず伝道師やってる自分としては、力不足を感じずにはおれません。

今は、どこかで無事にいて、ひょっこり現れるんじゃないかと、待っているところです。

しかし、懸命に探してる友人たちの状況報告を聞きながら、本当にいい仲間たちだなと思いました。
ジーザスも、神はそのようなお方だといいます。

特に都会では、大勢の中の一人に埋れてしまいやすいかもしれません。
周りには、いっぱい人はいても、なぜか孤独を感じてしまうことがあると思います。

しかし、バイブルの神は、1人を大切にする神です。

私もその1人。
自分もまた一人を大切にする心を忘れずにいたいものです。

「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」
ルカ15:7

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2013年05月29日

ニュースレター第5号

ニュースレター第5号です。

昨日、聖望の宣教牧師、宮村武夫先生から指摘をうけ、ニュースレターにナンバリングした方がいいとのこと。。。

1〜3号は…?
かれごれ8〜9年前に発行してストップしていたのでした(^_^;)

ですので、あえてナンバリングはしていなかったのですが、まあ、そんなわけで、通算第5号です。
聖望教会で行なっている東北支援のレポートとともにお届けします。

ただいま、キリスト教の放送局CGNTV の「「みことばに聞く(千葉)」 で、10分ほどの
メッセージも配信しています。
5/9と5/22、あともう1回あるはずです。よろしければ、ご覧ください(^^)

holyhope第5号.pdf


■活動予定
5 月放映 CGNTV 番組 http://japan.cgntv.net/ 「みことばに聞く(千葉)」 力・メッセージ
6 月 9 日 単立・クロスロード・インターナショナル葛西教会 力・説教/静・賛美
6 月16 日 単立・聖望キリスト教会(市川市) 力・説教/静・賛美
6 月21〜24 日 【東北支援】ベンソン師・祈りの家(石巻市) 静・被災地コンサート
6 月23 日 単立・シャローム福音教会(横浜市) 力・説教
7 月 6 日 【東北支援】宮城県 亘理、山元町近辺 仮設コンサート(予定)
7 月 7 日 保守バプテスト・船岡聖書バプテスト教会(宮城県)力・説教/静・賛美
8 月 4 日 (保守バプテスト・田園グレースチャペル 力・説教予定)
8 月10 日 【東北支援】宮城県 亘理、山元町近辺 仮設コンサート(予定)
8 月11 日 【東北支援】単立・シーサイドバイブルチャペル 力・説教/静・賛美、仮設コンサート
8 月18 日 単立・静岡その枝キリスト教会(静岡市) 力・説教/静・賛美
8 月25 日 単立・シャローム福音教会(横浜市) 力・説教

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2013年04月26日

ただ、この一事に努む

「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。
ただ、この一事に励んでいます…。」ピリピ3:13

「ただ、この一事に努む」

これは古い方の訳なんですが、小学校6年の時に、父親から座右の銘として与えられた聖書の一節です。

…って、父親の座右の銘だったってわけじゃないですよ。
私の座右の銘として、父が決めて与えられたんです。。(^_^;)

座右の銘って、自分で決めるもんだと思うんですけどね。。
もちろん、その時まで、こんな言葉は私の右にも左にもいらっしゃいませんでした(笑)

うちの父親は、よくいえば信念が強い、悪くいえば強引。
今、思えば、面白いキャラですけどね(^_^;)

おかげで、この一節は非常に印象深く脳裏に刻まれ、いまやしっかり座右の銘に近くなっているのでした(笑)

えーい、くそ!

それはそれとして、新年から始めたこの聖書の小話ですが、最近、土日も外部奉仕が続き、普段は会社ですから、なかなか打てずにいました。
こうした文章書くだけの時間…というか、ゆとりというか、思考能力、頭が回らなくなってしまうんですよね。。
そうこうしていくうちに、1日1日過ぎちゃいます…(^_^;)

そんな時に思い起こすのが…

「ただ、この一事に努む」

うお、出やがった!

…というわけで、この言葉について書いてます(笑)

ま、自分という小さな器には、能力、体力、時間…様々な限界は付き物です。
それで自分を否定する必要は全くありません。

「ただ、この一事に努む」

たとえ理想通りに、完璧にはできていなくても、今の自分にできること、そこに懸命に取り組めているか…なんだと思うんです。
ただ、この一事に努めていきたいものですよね(^^)

「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。
ただ、この一事に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」
ピリピ3:13〜14




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2013年04月06日

高ぶることなく

…同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。
みな互いに謙遜を身に着けなさい。
神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
1ペテロ5:5

先日、メッセージをインターネットで動画配信しようという試みで、初めてカメラを相手にメッセージをしてみました。
やってみると、人前で話すのとは、全く違うものですね〜。
ただいま教会のメンバーが、編集してくれているのですが、動画だと自分のアラもよく見えます。。(^^;;

その辺、超ベテラン宮村牧師は、さすがです。童謡から手短かに聖書を語っちゃうんです。

ですが、これもいい経験。
習うより慣れろで、やってなんぼなんだろうと思います。

…が、二つの怖さを感じました。

まずは、そんな未熟な者なのに、ネット上で配信するということ。。
恥ずかしさ半分、なんだか恐れ多くも感じてしまいます(^_^;)

それと同時に、もし、これが、うまくできるようになった時に自分に起こるであろう驕り、高ぶり、高慢です。

今は全然なのですが、カメラの前でもうまく話せるようになったら、つい、
どうだ、大したもんだろう!
…って、思っちゃうと思うんですよね(^^;;

でも、この「高ぶり」こそが、要注意。
福音の本質まで失わせてしまうんです。

私たちの罪が赦されているのは、あくまで神の恵み、あわれみです。
自分の努力、行ない如何ではありません。
クリスチャンになっても、伝道者になっても、しかりです。私たちは、あくまで赦された罪人にすぎません。

ところが、ちょっと何かうまくできるようになっただけで、すぐ鼻が高くなってしまう…(^^;;
はあ、なんと高慢な者でしょう(笑)

これも言ってみれば、自己中心的な罪人である証拠ですよね。

高ぶりに対する注意は、聖書に度々でてきますが、実際、高ぶりというのは、自分の身の丈、本質を見失わせてしまうのです。
上から目線で人を見下したり、虐げたりしてしまいます。

怖いのは、その高ぶっている最中は、本人も高ぶりであることに気づかないのです。

時折、教会内でのカルト化、信仰的なハラスメントが問題になることがあります。
最初は純粋な動機で始めたことであっても、実績が積まれてきた時に、指導者が力を持ちすぎて、不当な形で信徒を支配してしまうなんてこともあるんです。
これらは、時に金銭トラブルや、パワハラ、セクハラ問題となって、はじめて実態が表面化するのですが、それらがどういうふうに現れるか、一つ一つの事例は、表面的な結果にすぎないと思っています。
指導者といえど、やっぱり罪人だというだけの話なんですよね。

にもかかわらず、いつのまにか、そんな罪人が力を持ち、狭い世界で自分を絶対化させてしまう。
それは本人ばかりではなく、周囲に取り巻く人たちも含めてです。

これこそが問題の本質、その根本には、やはり高ぶりがあるのではないでしょうか。

ところが、当の高ぶる本人は、気がづかない。周りの忠告にも耳を貸さない。だって、高ぶってるんですからね。
むしろ、忠告や反対する人たちに、被害者意識で敵対していくのです。

だから、怖い。。

ですが、正直、素直に告白してしまいますが、私も、同じ高ぶる要素を抱えている罪人だということです。

わー、やだやだ(^_^;)

皆さんは、どうでしょうか。。

いいんですよ、正直で(^^)

主は高ぶる者を退け、へりくだるものに恵みを注がれる…

へりくだるというのは、ありのままの自分を認めることなんですよね。
高い自分を低く見せることでも、高ぶっていない振りをすることでもありません。
低い自分を、そのまま低いと、蔑むことなく、素直に認められる、これこそが、へりくだるということです。

些細なことで高ぶり、人より優れた者だと勘違いしてしまう…
自分がそんな小さな罪人であることに気がつき、素直に認められたら、仮に高ぶってしまっても、自慢にもならなくなりますよね。

アホだよな…で終わるんです(笑)

むしろ、そんな高ぶるアホをも愛してくださる神に感謝!
注がれている恵みを受け取ることができるのです。

わお!(^^)

だから、あらかじめ皆さんにはお断りしておきますが、私は些細なことで、高ぶるアホなんです(笑)
ま、本当に高ぶってたら、ハエたたきか何かで落としてください。

ですが、そんなアホもアホなりに、神の恵みを恵みとして伝えていこうと思うのです。

ちなみに、メッセージ動画。
ただいま、なんとか見れるレベルになるように、一生懸命、編集してくれていますので、しばらくお待ちくださいませ(^_^;)


…そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。
「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。…」
マルコ10:42〜43

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2013年03月31日

「信じない者にならないで」ヨハネ20:19〜31

 みなさん。ハッピー・イースター!
毎度、千葉市川から、思い出したかのようにやってくる伝道者、竹下力です。みなさん、お元気でしたでしょうか。

 今日は「イースター」ということで、暦の上では、イエス・キリストが、死んで葬られ、三日目によみがえったその日にあたるわけですが、死んだはずの人間がよみがえるというのは、まず信じられない出来事だと思うんです。

もし私が、今日の帰り、交通事故か何かで死んだとするじゃないですか。
すごい、たとえですけど。。。
皆さんも、きっと悲しんでくれるに違いない。そう信じたい(笑)

でも、三日目に葬儀に出かけていったら、棺おけに遺体がない、竹下が蘇った!
そう聞かされたとしたら、信じられるかというと、皆さん100%間違いなく、疑うと思うんです。それ普通です。

今日の聖書箇所は、前半の部分がイエス様が復活した日曜日、つまり今日の出来事です。そして後半は「八日後」の出来事、ユダヤ式の数え方では、その当日を含めて、足掛け八日後となりますから、ちょうど一週間後に当たる来週の日曜日となるわけですが、ここにキリストの復活について疑いを抱いたトマスが出てきます。
私、結構、彼が好きというか、親近感がわくんですよね。

「見ずに信じる者は幸いです。」とは語られていますが、イエス・キリストがよみがえった…、それは決して、科学が未発達の昔の人だから信じられたというような話ではなく、当時の人たちであっても、常識ではありえない、信じがたい出来事であったわけです。

 もし、このイエス・キリストの復活が作り話で、それを見ずに信じろ…というのであればですよ。かんなり信じることの難しい、無茶な宗教、作ったものですよね。
 
ですが、実に、トマスばかりではなく、この現場にいた弟子たち全員、見ずに信じたわけではなかったんですね。
「見て、信じた」んです。
実際に見ちゃったものだから、「見た」もんは「見た」という他なくなってしまったわけです。彼らは、目撃者となったわけです。

実に、このヨハネの福音書では、「見た」という言葉が、非常によく出てきています。

20章から復活の記述が始まっているのですが、少し拾い上げてみますと…

20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見た
20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
20:8 そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。

この「もうひとりの弟子」とはヨハネのことですが、やはり「見て、信じた」んですよ。

でも、じゃあ、それで100%、復活の事実を、信じられたのかといえば、それでも、復活の主イエスご自身を見ていなかった弟子たちは、まだ、信じ切れなかったようです。

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。

弟子たちが、この時、一番に不安だったのは、イエス様が死に、次はわが身、ユダヤ人たちがいつ自分たちを捕らえに来るか、いつ殺されるのか、その恐怖でいっぱいだったんです。
十字架の死の恐怖、空の墓を見ても、イエスがよみがえった…という知らせを聞いても、その恐れは、消えることはありませんでした。

しかし、その恐怖の中に、復活の主イエスは、現れたんですね。

「平安があなたがたにあるように。」

20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

それは、もう本当に、言葉にはならない衝撃、感動だったはずです。

弟子たちも、「主を見て喜んだ。」こうして自分の目で見て、ようやく復活の事実を理解しはじめていくんです。

しかし、そんな弟子たちも、すぐに、もう1つの不安がよぎるわけです。それは、主イエスとの関係においてです。

主イエスの手には紛れもなく、釘の跡、さらに、わき腹には槍で突かれた刺し傷もあったわけですね。弟子たちは、その傷跡も、確かに見たんですよね。

弟子たちは、もうイエス様に死んでも着いて行きますと言いながら、いざ十字架が迫ると、とたんに逃げてしまったんです。そんな自分たちを、イエス様は赦してくれるのだろうか、認めてくれるのだろうか…。そんな不安も心には残っているわけです。

十字架の傷跡というのは、ただ単に、主イエスだけが負った傷ではないんです。
十字架を前にして逃げ出した弟子たちの心の傷でもあったんですよね。
しかし、

20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

彼らは、決して、見捨てられたわけでも、弟子として失格でもなかったわけです。

そして、今日、一番の注目株、トマスさんです。

20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

彼は、ある見方をすれば、確かに不信仰なのかもしれません。
ですが、私個人としては、彼を非難することは出来ないし、いや、ある面、むしろ、立派にすら思うんですよね。

他の弟子たちが、復活した主を見た、主を見た、といっているわけですよ。ついつい、なんだか自分ばかりが見てないのが悔しいような気がして、俺も見たと言ってしまいたくなるような気がするじゃないですか。でも、彼は、そこで妥協しないんですよ。

彼は、良くも悪くも、人の話をそのまま信じない。鵜呑みにしないんですよね。
ちゃんと事実を、この眼、この手で、確かめようという姿勢…、それはそれで、ある面、大切なことですよね。
ですが、彼は、決してイエス様の復活を否定しようとしたのではなく、もし本当に復活したと言うのであれば、その事実を確かめたかった、自分も復活の主に会いたかった、むしろ求めていたと思うんです。実は、会えなくて、ちょっと寂しかったのかもしれませんね。

そして主イエスもまた、そのトマスを否定したのか…というと、決して、そうではなかったんです。

20:26八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。」

その差し伸べられた手には、紛れもなく、やはり十字架の釘の跡があったわけです。

トマスもまた確かに、その傷跡を見たんです。
トマスが、その差し伸べられた手の傷跡を見、手で触り、そこに主イエスのぬくもり、愛と赦しを確かに感じたときに、トマスの心の中にあった傷も癒されていったのではないでしょうか。

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

このあと主イエスは、「見ずに信じる者は幸いだ」とも語られているわけですが、決して叱責しているわけではなく、「見ずに信じられるくらいなら、幸せだよな。」と苦笑いしているようにも思うんですよね。
主イエスは、決して見ないで信じろと言うのではなく、傷跡を差し出し、見てでも、手を差し入れてでも、信じない者にならないで、信じるものになれと語りかけているわけです。
私なんか、この復活を疑ったトマスが、ちゃんと復活の主を見て、信じたというが故に、信じられるような気がしますね。
トマスばかりではなく、弟子たちは、誰しも、見て、触って、信じる事ができた、最も幸いな人たちだとはいえないでしょうか。

さて、私たちも、確かに、その手の傷跡を見、触れさせていただく必要もあるのかもしれません。

…と言っても、残念ながら、今は、復活の主イエスを、この目で見ることも、手で触ることもできないわけですが、「人の優しさに触れる」…という言い方をしますよね。
優しさも、確かに、この目では見えないし、この手で触ることも出来ないわけですが、確かにあって、私たちは、心で何かを見て、心で何かに触れることがあるわけです。

主イエスが差し出した、手の傷跡。。。
それは、まさに歴史的な主イエスの十字架の事実に触れていくことなんです。
両手両足に傷跡のあるイエス・キリストこそが、よみがえって、今、生きて働いておられるというわけですよね。

私は両親ともにクリスチャンだったわけですが、まだ小さいころは素直で、父親から教えられるがままに「イエス様は私の罪のために十字架に着いた」とは言えちゃうわけですよね。それが信仰告白となり、洗礼ということにもなったわけですが、じゃあ、私の罪ってなんなの、実際の十字架ってどうだったの…って、まったくわかっていなかったと思います。

ですが、大きくなるにつれ、反抗期にもなるわけですよね。親元から離れるついでに、教会からも離れ、いつしか罪を重ね、その罪が重く感じられるようになっていたんですよね。
ちょうど大学4年のこと。正直、自分はクリスチャン失格だと思っていました。この先、何を目指して生きていけばいいのかもわからず、生きる活力も失いかけていたような時期があったんです。

でも、そんなある日、はっきりと目の前に十字架が描き出されたんです。

それは、もちろん、この眼で見たわけではありませんが、頭の中に描き出されたんですよね。
しかも、よく宗教画にあるような、カンナで削ったような十字架に、無抵抗に十字架に着けられているような姿ではなく、曲がりくねった荒削りの十字架に釘つけられ、苦しみと戦うキリストの姿だったんです。

また、この耳で聞いたわけではないですが、その姿から、はっきりとこういうメッセージを受け取ったんです。

「力、俺は、お前のその罪のために、十字架を背負ったんだよ。私が死ぬから、お前は生きなさい」

事実として、イエス・キリストは、多くの罪人たちを赦したがゆえに、その赦した罪の非難や責めを負って、十字架を背負われたわけです。

十字架を背負われた主は、2000年という時を越えて、今日も傷ついた手を差し出し、人々の心に向けて「見なさい。」「触りなさい。」「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」そう語り続けています。それが復活の主イエス・キリストです。

その傷跡に触れる時、どんなに罪深くても、どんな弱さがあっても、どんなに失敗があっても、シャローム、心には平安、与えられた生涯を自分らしく精一杯生きるだけ、神がすべてを受け入れてくださるわけです。

私自身も、決して清く正しく美しい、お世辞にも立派な人間などとはいえません。やっぱり罪人ですよ。
でも、この主イエスの愛と赦しを知って、だから今、生きている、自分なりに懸命に生きているにすぎないんですよね。
やっぱり罪人みたいな?

でも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

これこそ復活の主イエスの願いであるわけです。

20:30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

ヨハネは、イエスが、他にも多くのしるしを行ったと言いますが、具体的には、その多くを書きませんでした。その出来事の中にも、もしかしたら私たちにとって教えられることや益になることも実はあるかもしれないですよね。でも、書かなかったんです。

なぜならば、それら細かいことを逐一書き記すことで、本来の目的、私たちが信じて、イエスの御名によって命を得るということが、ぼやけては意味がないからです。

どれだけ聖書を読んだとか、理解したとか、どのくらい教会に通ったかとか、もちろん、この世の生涯を生きていく間には、力にも役にも立ちますが、およそ「救い」ということに関していえば、まったく関係ありません。

主イエス・キリストは、私のためにも、あなたのためにも、歴史の事実として、多くの罪人を赦し、その責めを身代わり、十字架を背負い、死にも打ち勝った。
ここに希望があり、愛があり、いのちがあります。

この主イエス・キリストを信じるなら、いつでも、どこでも、誰ででも、救われます!

イエス・キリストの十字架は、ありがたい救いの教えではなく、歴史の事実です。

ぜひ、私たち自身も、この主イエスの手の傷跡を、しっかりと心で見て、事あるごとに触れさせていただきましょう。
この復活の主イエスを喜び、素直に信じるものでありたいですよね。

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

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2013年03月28日

単純シンプルに

…キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマ(洗礼)を授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。
それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
1コリント1:17

先日の日曜には、教会で洗礼式があったのですが、一人の人が救われるというのは、やっぱりうれしいことですよね。
人生の中には、様々な苦難や失敗があります。時に自己否定にも陥ってしまいがち。
しかし、「はじめに神が…」(創世記1:1)いてくださる。

私たち人間は、何かと難しく考え、時に無理してまで幸せなり、自分自身の人生なりを築きあげようと、あくせくしてしまうことがあるような気がします。

それはそれで、成長という観点では必要なことかもしれないのですが、しかし、根本では、誰しも自分の意思や努力で生まれてきたわけではないんですよね。

はじめに神があって、この世に生まれ、今、生かされている。。

単純シンプルに、今、生かされていることを喜び、感謝できたら、もっと自然体で、自分らしく、有意義な人生をおくれることも多いように思います。
もちろん頭でそう思っても、なかなか、そうはいかないこともあるんですけどね。。(^^;;

キリスト教会内でも、時に同じような現象が起きてしまうように感じます。

はじめは単純にイエス・キリストを信じたはずなのに、やがて難しいことが言われたり、難しく考えたりしてしまう。。
難しいことの方が、優れているように見えるのかもしれません。
単純なものが複雑になり、枝葉の細かい部分が大きくなって、本質的な部分を見えにくくしてしまう…
そんなことはないでしょうか。。。

時には、本質的な部分が損なわれているにも関わらず、目もくれず、周辺の事柄ばかりが大きく取り上げられる…そんなこともあるように思います。

冒頭の聖句は、パウロという伝道者が、コリントの教会に書き送った手紙です。

信仰の始まりであるはずのバプテスマ(洗礼)でさえ、私はあの先生から受けたい、いや、こっちの先生の方がいい…なんてことがあったようです。

パウロは、決してバプテスマを軽視しているわけではありません。
しかし、たとえバプテスマであったとしても、そのためにキリストの十字架がぼやけたり、影が薄らいだりしないように細心の注意を払っていたことがわかります。
当然、自分の宣教の言葉であっても、しかりです。

十字架は、世界で最も残酷な死刑。決して、たやすいものではありません。
主イエスは、事実として、罪人を赦し、友となり、その罪の責めを身代わりに負って、十字架の死にも挑み、釘付けにされました。
そんなイエスの生涯、生き様を通して、神の愛と赦しがいかなるものかを人々に見せてくれたわけです。

この十字架を背負うこのイエスの生涯、生き様を見た時に、この方こそ神の子、キリスト、神ご自身と信じるなら、いつでもどこでも誰であっても、神の愛と赦しを受け取ることができます。

信じる信仰によって救われる…
私たちの努力や行ない、勉学、訓練…何かではないのです。

今週は受難週。この金曜は、イエス・キリストは十字架につけられた日にあたります。

パウロも、また後世に生きる私たちも、この十字架につけられたキリストを語り伝えてはいるのですが、いかなる言葉も、宣教手段も、また神学的なこだわりも、この事実として十字架を背負われたキリストには、決して及ぶものではないことを心に刻み込んでおきたいものです。

単純シンプルに、私たちの救いのはじめに、まずキリストの十字架の事実があったことを、しっかりと覚えたいものですね(^^)

イエス・キリストは、あなたのことも、命がけで愛しています!

…しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。
ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
1コリント1:23〜24

 
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2013年03月11日

口の前に手を開きたい

貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。
「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」
申命記15:11

今日は、311ですね。
皆さん、それぞれに思うところがあるのではないかと思います。

私も、いつも通り仕事だったのですが、震災後、最初に東北に行った時のことなどを思い出していました。
でも、今もなお現地で復興途上にある人たちのことを思うと、今日この日ばかりは、うまく言葉が見つからず、なんだか口を開くと、まるで嘘のようになってしまいそうで、言葉が出てきません。

冒頭の言葉は、旧約聖書に出てくる古代イスラエルの律法です。
律法の事細かな教え1つ1つは、もはや守る必要はありませんが、律法の精神は学ぶべきところがあります。

まだまだ現地では、様々な助けが必要な人たちがいます。
しかし、今日この日に何もできない自分がいます。

口の前に、手を開きたい。
たとえ口は開けなくても、手だけは閉じず、開き続けるようにしたいものです。。(^_^;)

でも、その点、日本はすごいと思います。
今日この日も、まだまだ手を開く人たちがいます。

一人ができること、私自身にできることも、本当に顕微鏡レベルの小さな小さなことでしかないのですが、今日でなくても、どんなに小さな手でも、開いていきたいものですね!

あなたのパンを水の上に投げよ。
ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。
伝道者の書 11:1
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2013年03月08日

何も思い煩わないで…

…何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
ピリピ4:6〜7

昨年夏からの竹島問題の影響で、韓国旅行の需要は、前年に比べ、およそ半減しています。
韓国旅行を基盤とする、うちの会社もかなりの打撃を受けておりまして、3月の給料から20%カットすることが決まりました。

ま、旅行業界というのは、こういう波は付き物なので、なんとかなると思います。
むしろ去年までが、韓流ブームに乗っかって好調だったというのが、正解でしょう。
決して、うちの会社だけではありません。
何事も捉えようで、今の状況でもなお80%は得られるわけですから、感謝なことなんですよね。

…とは言え、決して少ない額ではありません。
奥様になんてお知らせしようか…、少し気がかりだったのですが、さすがは、我が奥様。
その程度では動じません。
これまでの方が、よほど苦労をかけているからかもしれませんけど…(笑)

内心は心配もあるとは思いますが、理解を示してくれました。
それだけでも助かります。。(^_^;)

さて、冒頭の聖書箇所は、パウロという伝道者が投獄された時に書かれた手紙です。

パウロの場合、給料20%ダウンどころじゃないんですよね。。
投獄です。
さすがに、のんきな私も牢に入れられてまで、こうも落ち着いていられる自信などはございません。。(^_^;)

ですが、パウロは、そのような状況の中で、パウロのことで心配しているピリピの教会の人たちを思い、語りかけるのです。

「何も思い煩わないで…」

私たちは、その時折の境遇によって、気持ちがアップダウンしてしまうことは避けられないと思います。
人生の中には、ピンチや岐路に立たされること、迷うこと、悩むこともあります。
時には、立ち止まり、自分を省みて、何がベストか、じっくり考えることも必要でしょう。

ですが、それが決して解決に向かうことがない否定的な思い…、
度を超えた不安や落ち込み、不満や愚痴になったり、あるいは自己嫌悪、後悔だったり、
「思い煩い」になってきたら要注意です。

そんな「思い煩い」が続けば、自分にあるよいものや、可能性まで否定するばかりではなく、周りにまでマイナス的な影響を及ぼしてしまうことがあります。
心だけではなく体にも影響を与えて、「重い患い」にもなってしまいかねません。

しかし、状況がどうであれ、ただ、その時、その時に、自分自身にできる最善を尽くすことでしかないんですよね。。
そのためにも、いかに心の平安を保つかです。

このパウロの場合は、半端ありません。
これまでに病を負い、死ぬほど鞭打たれたり、遭難したり、生死を分けるような数々のピンチもありましたが、その中を掻い潜ってきました。

お世辞にも決して順風満帆とは言えない、思いっきり逆境に立たされていながらも、その只中で神に祈り、神が共にいて、神が守ってくださる…、
その都度、その都度、ピンチを乗り越えてきた、その経験が物を言うんでしょう。
誰よりも、イエス・キリストは、十字架にも挑み、乗り越えたお方です。

「何も思い煩わないで…」

まあ、今の私レベルですと、鞭1発だけで思いっきり思い煩いそうですが(笑)、この給料20%OFFは一つの経験。

さて、どこを節約して、どう打開していくかな…(^_^;)
決して思い煩わずに、前向きに励んでいきたいと思います。

1日1日、自分なりに、自分らしく、精一杯いきましょう!

…あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
1コリント10:13
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2013年03月04日

ニュースレター2013年3月


早いもので、昨年、神学校を卒業10 年、結婚満10 年を向かえました。

今後の展望を考えたときに、より伝道・音楽活動の方に重点を置き、
さらに外へと出向き、広く活動を展開、充実していきたいと願っております。

ぜひ皆様方のお祈りとともに、他の教会にもご紹介いただけましたら幸いです。
もちろん、皆様方の教会でも必要がありましたら、喜んで奉仕させていただきま
すので、ぜひお声かけいただけましたら幸いです。

ニュースレターも作成しましたので、あわせて、ぜひご覧ください。
>>> ニュースレター2013年3月(PDF版)

■活動予定

3 月1〜3 日 仮説住宅(東松島市・仙台市) 静・コンサートwith Migiwa
         【聖望教会・東北単立教会支援】シーサイドバイブルチャペル
3 月10 日 単立・聖望キリスト教会(市川市) 力・説教/静・賛美
3 月23 日 CD アジアン・インスピレーション「Ai(アイ)」発売記念ライブ・静
3 月31 日 保守バプテスト・田園グレースチャペル(川崎市) 力・説教/静・賛美、コンサート
4 月14 日 単立・シャローム福音教会(横浜市) 力・説教
4 月20 日 スプリング・ディナー(南相馬市) 静・コンサート
4 月21 日 【聖望教会・東北単立教会支援】単立・原町聖書教会(南相馬市) 力・説教/静・賛美
5 月 3〜6 日【聖望教会・東北単立教会支援】キリスト教会「石巻祈りの家」(石巻市)等訪問予定
5 月 5 日 兄弟団・石巻キリスト教会(石巻市) 力・説教/静・賛美 午後コンサート予定

■3 月1 日発売 CD アジアン・インスピレーション「 Ai(アイ) 」 に、静の「JOY」も収録

3 月1 日よりキリスト教書店等にて発売開始される日韓22 組のゴスペルアーティストによる全22
曲のオムニバスCD に静も参加。また、同じく収録されているMigiwa さんとは、今後ユニット活動
も展開していく計画もあります。ご期待ください。CD は定価2,100 円(税込)。
http://www.holyhope.net/shiz/news.htm

今後ともよろしくお願いいたします。
posted by holyhope at 16:20| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュースレター | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする