2013年03月01日

「エリヤを養ったカラス」T列王記17:1〜9

(2013年2月23日 東京プレヤーセンター)

みなさん、こんにちは。
今日は、聖望教会の面々で、月一回、岩井家の家庭集会を行っておりまして、勝手に合同集会とさせていただきました(笑)。

今、この家庭集会では、創世記から始まり、大胆なくらいに、ざっくりと、聖書になにが書いてあるか見てみようということでやっておりまして、今、列王記になったところなんですね。今日は「エリヤのカラス」の場面というわけでして、無理矢理でして、TPCのみなさんにも、お付き合いいただこうというわけです。

さて、サウル、ダビデ、ソロモンと王朝が続いたわけですが、ソロモンが外国の女性に、はまりまして、偶像のための神殿まで作ってしまったんですね。

結果として、混乱をもたらし、南北に分断してしまうわけです。
南のユダ王国では、エルサレムの神殿があったからか、神様に立ち返る王も出ます。
しかし、北王朝では、南との対立もあって、ことさら偶像礼拝が続いてしまうわけです。

T列王記 17:1
…ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」

エリヤの記事は、いきなりアハブ王に喧嘩を売っているところから始まるわけですが、この預言者エリヤの時代、アハズ王は最悪というくらいな王だったんですね。

T列王記16:31
…彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。
それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。

この奥さんがまた、強烈な偶像礼拝者でして、イスラエルの預言者を迫害し、後々まで、女君主として君臨していくわけです。
そこで、身が危ないというわけで、神様からエリヤに次のことばがあったわけです。

T列王記17:3〜4
…「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」

皆さん、どう思いますか。。。

カラスですよ、カラス。
日本の真っ黒なカラスとは違って、もう少し小ぶりで、グレーのチョッキみたいな模様が入って、かわいらしいんですが、やっぱりカラスです。
普通は、飛んできて、食べてっちゃうのが、カラスなんですよね。。。

人とは言わないまでも、もう少し、犬でも、猫でも、まともな動物はいなかったのでしょうか。。。よりに寄ってのカラスなんです。

しかし、エリヤは、神様の言葉通りに身を隠すんですね。

17:6 幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。

なんと、けなげに、カラスがせっせと運んでくるんです。
神様の言葉に従うエリヤもすごいですが、このカラスたちも偉いじゃないですか。

もちろん、これは単なる偶然ではありません。
偶然どころか、普通は、カラスが運んできてくれるなんてことはありえないわけですよね。むしろ自分が食べるために、人のものも奪ってしまうのがカラスです。

そこは、やっぱり神様が命じて、神様が働いているからこそ、カラスは運んでくるんですが、それにしても、なぜ、神様は、この時、カラスに運ばせたんでしょうか。なぜ、カラスを選んだんでしょう。

実に、このエリヤを養うカラスの姿を見たときに、まず、私自身が、このカラスのようであるべきだな…って思うんです。

私が神学校時代、いのちのことば社でバイトしながら、学校に通っていたんですが、なんせ、一人暮らしのバイト暮らしじゃないですか。大して、ろくなものを食べていなかったんですよね。

すると、同じ職場にいたおじさん…、聖望教会の小林さんなんですが、だったら家の近くに住んで、たまに、ご飯でも食べにきなよ…ということで、それで市川に住み、今の聖望教会にも集うようになったんですね。
まあ、早い話、餌付けされたようなものですよね。

さらには、なんと小林さんの奥さんが、お昼のお弁当まで毎朝、届けてくれるようになったんですよ。
それを聞いた、同じ職場の人が、まさに「エリヤのカラスだね」と言ったんですが、まさに、それは本当に、有り難い話です。

ここで終われば、すんばらしい話で終わるんですけど、間髪いれずに、そのご主人、小林さんが…、なんて言ったと思います?

「うちの場合、カラスが飛んできて食べてっちゃう…。」

さもありなん。。
私こそ、本来の、まさにカラスみたいなものなんですよね。

そのほかにも、今日は聖望教会の面々が来てくれましたが、これまで、私も、静も、多分に聖望教会の一人一人に養われてきたんだよな…って思うんです。
それは、食べ物ばかりではなく、慰めであったり、励ましだったり、時には笑い話、冗談も含めて、さまざまな助けを受けながら、養われてきたわけです。

では、そんなカラスみたいな私が、聖望教会に、あるいはTPCに、また、ほかの人々に、何を与えることができるんだろう、何を運べと命じられているんだろう…って考えるとですね、私の場合には、やっぱり一番は聖書の言葉、いのちのパンを運ぶことだと思うんです。
ついつい、メッセンジャーと言うとね、えらくなりがち、高くなりがちなんですが、でも所詮、カラスですから。
せっせと御言葉を運ぶカラスになれたら、いいんじゃないかな…って思うんですよね。
これが静だったら、歌になるかもしれないですよね。与えられた音楽の才能を持って、歌を届ける。

私たち一人一人、与えられているものには違いがあるだけで、お互いに自分が持っているものを、必要な人のところに運び、時には、運んでもらいながら、お互いに養いあっていく…、実に、これこそ聖書、神様の求めている「愛し合う」という姿なんですよね。

カラスでさえ、神様が命じられると食物を運んでくるというのに、人間は何をしているかというと、さらに貪欲で、与えられたものでは飽き足らず、イスラエル人は偶像礼拝に走っていたわけです。
でも、これは、決して、人事ではなく、私たち、自分自身も含めて、人間の一面でもあるわけです。

預言者エリヤも、このカラスに養われながら、何かを感じ取っていたんではないだろうか。。。

このあと、川が枯れてしまうと、神様は、やもめ、未亡人のところに行けと言うんですよね。今度は、カラスではなく、やもめです。
しかも、このやもめは、もう最後一握りの粉で、息子と一緒にパンを食べて死のうとしている…、そんな極貧状態のやもめだったんです。
でも、それは、あくまで神様のみことばが、先にあったからです。

17:9…「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

神様の言葉、何もなくして、やもめから、最後の粉を奪えば、間違いなく、甕の粉はなくなりますんで、絶対に真似はできません。
我が家の米も、食べれば、普通に減ります。これは特別な事柄ですので、良い子は絶対にマネしてはいけません。
しかし、今日は、このやもめが、シドンにいるやもめということに注目したいと思います。

最初に、シドン…って出てきましたよね…。
そう、まさにこれからエリヤが対決しようとしているアハズ王の妻、悪妻イゼベルのお膝元がシドン(今のレバノン)なんです。まさに敵陣なんですよ。もちろん、このやもめも偶像礼拝者であったことでしょう。

なんと、本来、エリヤが本来一番嫌っていた偶像礼拝者のところに、神様のことばを運んでいくわけです。
もう一度、1節を見ていただけますか。

17:1 ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」

この時のエリヤには、「私の仕えている」、「私のことば」、「私」が先行していて、ほかの箇所に見られるような、「主のことば」がないんですよね。

実に、エリヤも神様が遣わされたカラスに養われ、カラスから学んだように思うんですよね。。。エリヤもまた、カラスのように、命じられるまま、御言葉を運んでいったんです。

それで、偶像礼拝をしていた家族のところにも、救いがもたらされ、偶像礼拝の地にあっても、天地を造られたこの神こそが神であることが明らかにされたわけです。
そして、いよいよバアルの預言者への対立と向かうわけです。

私たちにも、神様が送ってくださるカラス的な存在が、実は多くいるように思います。
必ず誰かに助けられながら存在しているんですよね。
ならば、私たちも、人それぞれに運ぶものは違いがあっても、神様が命じられる時、このカラスのように、必要なものを必要な人へ、せっせと運ぶ存在でありたいものですよね。

17:4「…わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」
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2013年02月09日

心のバロメーター

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
1テサロニケ5:16〜18

前回、心の内にどんな言葉が占めているかで、捉え方が変わるという話をしましたが、この1週間、仕事が忙しく、女性陣のおしゃべりに、ちょっとイライラ…。
ったく!…と思いながも、自分の書いた文章思い出して、とりあえず我慢(^_^;)

うーん。。ためになる…自分の(笑)

でも実際、このおしゃべりを止めてしまうと、いい意味でのコミュニケーションまで止めてしまうんですよね〜。
そこが難しいところです(笑)

しかし、そんな私も、仕事帰りに欲しかったビデオカメラをゲット!
それで、もう、ちょーご機嫌(^^)
イライラは、どこかに吹っ飛んでいました。

我ながら、現金というか、単純というか、ある意味、感心しちゃいました(^_^;)

さて、冒頭の聖書箇所は、竹下家の親族の間では、実家のお便所に掛けられている有名な言葉です。

実家にいる頃は、なんも思わなかったのですが、今は、心のバロメーター的な言葉になっています。

もちろん、人生、喜べることばかりではないと思います。時には、嫌なことも、辛いことも起こります。
逆に、いつもは喜んでいられることばかりではないから、「喜びなさい」ってことも勧められているんですよね。

もし、これを「命令」(律法)として受け止めたら、この上もない苦痛だと思います。
少なくとも、私は嫌ですね(笑)

ですが、喜べない状況の時にも、ただ悲観するだけ、不満でいっぱい、あるいは落ち込みっぱなしではなく、どうしたら喜べる状態になれるか、自分も周りも喜べる方向に心を向けていく事ができたなら、心の持ちようは、ずいぶん違うのではないでしょうか。

たとえ喜べない状況の中でも、クリスチャンは神に祈ることができます。
自分一人では絶望だったとしても、神様は無限大です。
祈る…というアクションを起こす限り、心は絶望へとは向かいません。

今の私自身、振り返れば、いいことも悪いこともありながら、それら一つ一つが経験となって、今があります。
無駄な経験などありません。
そう考えれば、本当はどれも感謝なこと。今があるということだけでも、実際、とても感謝なことなんですよね。。

…とは言いながら、渦中にある時は、なかなか全てを感謝することなど、正直、難しいのですが(^_^;)
でも、人間の脳には不思議なところがあって、何も感謝することがなくても、繰り返し「ありがとう」と口に出していると、自然と脳は、何がありがたいんだろう…とを探し始める習性があるというんです。

ないもので不満を抱いているより、感謝できることを探していく方が、自分にとっても周りにとっても、幸せへの近道なのかもしれないですよね。

本当にすべてのことに、感謝できるとしたなら、それは本当に幸せなことだと思います。
だって、感謝なんですから。。(^_^;)

この聖句の続きには、大切な一句があります。

「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

これが神の望み、神のみこころだというわけです。
つまり、私たちが、そうなれるようにイエス・キリストは存在し、助けてくれているのが聖書の神様なんです。

人生、悩みや困難は多々ありますが、
いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する…
この言葉を胸に、そんな幸せを目指していきたいものですよね(^^)

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
1テサロニケ5:16〜18

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2013年02月04日

私の内にある言葉

…一日中、彼らは私のことばを痛めつけています。
彼らの思い計ることはみな、私にわざわいを加えることです。
詩篇56:5

今、皆さんのうちには、どんな言葉があるでしょうか。
それは日によってもいろいろだと思うんですね。

私も、調子がいい時には、肯定的、前向きな言葉、明るい言葉が多く心を占めています。
ところが忙しかったり、落ち込むようなことがあると、批判的、否定的な言葉が心を占めてきます。
不思議なもので、同じ物事に接しても、その時の自分のうちに、どんな言葉が占めているかで、捉え方も気の持ちようも変わってくるんですよね。

冒頭の詩篇の一節は、イスラエルの英雄ダビデの作ですが、彼はこの時、宿敵のペリシテに捕まった時とされています。
この時のダビデは、サウル王の嫉妬を買い、命を狙われ、なんと敵国に逃げこむわけですが、ダビデだとバレてしまったわけです。まさに四面楚歌。

ここで興味深いのは、ダビデは、この時の自分の状態を「彼らは私のことばを痛めつけています」と表現しているところです。
味方にも敵にも命を狙われ、恐怖や不安、あるいは惨めさ、孤独感、否定的な言葉が、ダビデの心の内にも占めてきたんでしょう。

そこに気づいたダビデは、自分の味方である神様の言葉を慕い求めるのです。

…神にあって、私はみことばをほめたたえます。主にあって、私はみことばをほめたたえます。
私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。
詩篇56:10〜11

こうしてダビデは、人ではなく、神のことばの方を信じて、自分のうちに湧き上がる否定的な言葉から、自分自身を守っていくんです。

私たちも、この社会で生きている間には、いろんな言葉を聞きます。
そこには、いい言葉も多くありますが、否定的、批判的な言葉も多く耳にしているわけです。
また時には、過去の嫌な出来事が思い出されて、もう昔の話なのに、思いが言葉となって、自分で自分を傷つけてるなんてこともありそうですよね。。。

知らないうちに、自分自身の内に、否定的な言葉が溜まっているんです。

その言葉が、自分にむけば自己否定的になりますし、他者に向けば、批判的、攻撃的にもなります。

やがて、自分自身の内にある言葉が、自分だけに留まらず、周りの人にも伝播するんですよね。

会社の上司や仲間にも批判的な態度で接してしまったり、さらに余裕がなくなると、普段は聞いてあげられる奥様の愚痴も、はあ、面倒くせえ奴だな〜と思ってみたり?(笑)
たとえ口では言わなくても、内側にある言葉が、表情や態度になって思いっきり出てきます(^_^;)

普通は、ここで奥様も察してくれるんですが、お互いに余裕がない時には、そこで留まらず、愚痴は続き、私の言葉も荒くなり、売り言葉に買い言葉、ついには爆発するわけですね…、私が(汗)

まさに否定的な言葉の連鎖です。

実は、周りの状況ではなく、自分の内にどんな言葉が多く占めているか…の方が重要なのかもしれません。

いつも思うのですが、否定だけでは何も生み出しません。むしろ、いいものまで壊してしまいます。
自分から出た否定的な言葉は、結局は自分自身に帰ってくるんですよね。
完全に否定的な言葉を避けることもできないでしょうが、なるべくなら肯定的な言葉を蓄えられた方が自分自身も周りも幸せです。

クリスチャンにとって、自分のうちにある否定的な言葉から、身を守ってくれるのが、まさに聖書、神のことばでしょう。

私たちを愛し、私たちを生かしてくださる、いのちのことばを、せっせと蓄えていきたいものですね(^^)

…あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいました。
それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。
詩篇56:13

 
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2013年01月21日

果たすべき使命

すると、主は私に仰せられた。
「まだ若い、と言うな。
わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。」
エレミヤ1:7

私の場合、もう今年40ですから、「若い」と言える歳ではないんですが、もし死を基準にすれば、死ぬにはまだ若すぎる年代にあたるんだと思います。
言うなれば、中途半端な中年かもしれませんが。。

実は、先週末、高校の同期が亡くなったという知らせが入りました。
在学中にほとんど話した記憶もなく、それ程親しい間柄ではなかったのですが、それでも、まるで自分の一部がもぎ取られたような気分でした。

おそらく、同じ学び舎で学び、それぞれ歩む道は違っても、同じ39歳。
私もそうですが、これまでに身につけたものを活用して、次の40代をどう生きるか…、そんな、まさにこれからの時だったと思うのです。
悲しいと同時に、どこか悔しいような、私に限らず、同期の仲間は、みな同じような心境ではなかったかと思います。

「まだ若い、と言うな。…」

「若い」というのは、本当に未熟な場合もあるのですが、よもすると、それを言い訳にもできてしまいます。

しかし、この世での命には限りがあり、私も例外なく、死という時を迎えます。
それは、明日かもしれないし、まだ先かもしれない、いつかはわかりませんが、確実に1日1日、近づいてもいるわけですよね。
その同期の死から、この自分の命をどう使うか、しっかり使えているか、改めて考えさせられました。

「使命」とは、命を使うと書きます。
人それぞれに違いはあっても、与えられている役割があって、ちゃんと使命があります。
私の場合には伝道者ですから、神様からのメッセージを語ることが一番の使命となるわけですが…
いつまでも「若い」と言わず、この限りある命、自分の使命を、きっちり果たしていきたいものですよね。
そのことを強く思わされました。

また、私や同期の仲間が、そうして生きていくことが、その亡くなった同期の命も無にしないということにもなるのだと思うのです。

…神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。
すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。

ピリピ 2:13〜14
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2013年01月18日

荒野に道…?

見よ。わたしは新しい事をする。
今、もうそれが起ころうとしている。
あなたがたは、それを知らないのか。
確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。イザヤ43:19

聖書を読んでいくと、いい言葉のようで、えっと思うような言葉に出くわす時があります。
この言葉も、その一つです。

神様が道を造ってくださる。
いいようで、「荒野」に道なんです。ようは、荒野を通れってことなんですよね?

荒野といえば、年間降水量30mm以下の過酷な環境。
荒野を旅行する際、必ず30分に1度は水を口に含んでくださいと案内しています。そうしないと、日本人は特に、脱水症状を起こしてしまいます。

以前、荒野のジープツアーに参加しましたが、石をどけると、猛毒をもったサソリやヘビが本当にいるんです。

聖書の他の個所でも「あの恐ろしい荒野」と表現されています。

旅行であれば、エアコン付の車に、水も血清も積まれ、専門ガイドが案内してくれますが、当時は歩きです。
あえて、そんな荒野を通りたいでしょうか。。

正直、ちと勘弁と言う気がするじゃないですか。

でも、神様は、その荒野に道を造るって言うんです。
荒野にいったい何があるというんでしょう。。

昨日、地元の静岡に行って来たんですが、親戚の家は、静岡でも山の山の、さらに山の中にあります。

集落と集落の間は、すれ違いも危うい、本当に狭い道の連続。
それでも、大分、道がよくなって、車で行けますが、昔の人はよく住んだもんだなと思うんですよね。

ですが、それは現代の都市生活になれてしまっているからかもしれません。
そんな山の中には、お店や娯楽的な楽しみもほとんどないですが、山には山の良さがあって、木々があり、動物が住み、川には魚がいて、実は豊かなんですよね。

今、住んでいる市川に戻ってきたとき、家の帰り道、何かついさっきまでと違う、不思議な違和感すら覚えたんです。
帰ってきた感じがしないというか…。

家では奥さんが待ってるのに、そんなことを言おうものなら大変ですが…(^^;;

いやいや別に家に帰るのがいやだったのではなく、多分、無機質なコンクリートに囲まれ、人は大勢いても、繋がりは極めて希薄なんですよね。
都市生活は、便利でモノにあふれてはいますが、得られないことで不満になったり、不幸にすら感じてしまったりすることがあります。
田舎では、特別なものはない代わりに、きっと人との繋がりは濃くなるんですよね。

荒野も似たようなことがあるかもしれません。
荒野に行けば、モノを求めようにも何もなく、私たちが知らずに身につけてしまった余計なもの一切を削ぎ落としてくれるように感じます。
かなりの強制排除ですけど(笑)

しかし、その厳しい環境の中にも、野ヤギ(アイベックス)たちは、水を飲むため、子ヤギまでもが断崖絶壁を登り下りしながら暮らしています。
アカシアの木は何十メートルと根を下ろし、そこから水を得ながら緑の葉を茂らせているんです。
年に1回あるかないかの雨が降ると、待っていたかのように、たちまち草花が芽生えます。
その一見、死に面した世界で、ちゃんと命が輝きを放っているのです。

私たち人間も同じ、この自然界で生かされている一員なんですよね。
聖書的にいえば、現に今、この自然界で神様が生かしてくれているわけです。

私たちの人生には図らずも、いろんな出来事が起きてきます。
時には「荒野」と呼べるようなところを通ることもあると思います。

しかし、そこを通らなければわからないこと、通ったからこそ気づくこと、何時の間にか忘れていた大切な何かも、その「荒野」にはあるのかもしれませんよね。

今までも振り返れば、あの時のあの経験があったから…ということはあると思います。

荒野を通るのにも、ちゃんと意味があって、実は、そこに神様からのメッセージもあるのではないでしょうか。

…野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。
わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。
イザヤ43:20〜21








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2013年01月14日

経験と不慣れ

神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。
彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。
ヘブル13:7

今日は関東でも雪。
特に静岡人の私は、歩くのも大変です。
こんな時、東北人の奥様は、強い味方。
足を垂直に上げ下げするように、指導?してもらっています。

普段は反抗的な私も、今日ばかりは従順です(笑)
転びたくないし…(^^;;

不慣れなこと、わからないことは、まず経験者に聞いてみるのが一番ですね。

漠然とでも、誰しも抱えている不安の一つは、死だと思います。
何で死ぬのか、いつ死が訪れるのか、その時、自分がどう振舞うのか、全くわかりません。

クリスチャンのゴールは、極めて明確です。
やがては、天の御国、イエス様の元に行きます。
…とは言っても、いざ死に面した時に、自分はどうなのかなと、ふと思ったりもします。
なんせ、まだ未経験なんで(^^;;

これまで何人かのクリスチャンの最期の時を見させてもらいましたが、一番、身近で見させてもらったのが父親です。

父が癌の余命宣告を受けた時、冷静さを装いながらも、父の手が震えていたのを覚えています。
しかし、それも、つかの間、あとは、それがどうした…くらいの勢いで、家族も本人も最期までまったく死を意識しないほどでした。

最期の1年は認知症も進んで、まるで子供のよう。。
ある意味、遠慮なく、素直に感情そのままを出すようになって、わがままの言い様も、イラっとするタイミングも、笑っちゃうほどに自分と同んなじなんですよね〜。
元は頑固な父親で散々反発もしてきたのですが、すっかり仲のいい友達のようになってしまいました(笑)

最期も死んだという気がせず、そのまま天国へ旅立って行ったような感覚です。

…なんて父親ネタを書いていると、天国から、今でも父親が何か余計な口を挟んで来そうな気分なんですよね〜。
きっと今、「何、言ってるだ!」と言ってます(笑)

クリスチャンにとって死は終わりではなく、その先にも希望があります。
それは本人だけではなく、遺された家族にとっても希望になるものなんですね。。

私自身、もう一度、父と語りあえる時がくると思うと、なんだか楽しみになるのです。
喧嘩するかもしれませんが…(笑)

自分がどういう死に方をするのかわかりませんが、死を悲観することなく、父のように家族や周りに希望と笑いをもたらせたら最高ですよね。

自分自身ではまだ経験できない死なのですが、父から、死に様=生き様を通して、一番、貴重なことを教えてもらえたように思います。

…イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。
このことを信じますか。」
ヨハネ11:25〜26

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2013年01月13日

「あなたはわたしのしもべ」イザヤ44:21〜28

2013.1.13 聖望キリスト教会

皆さん、おはようございます。
あらためまして、今年もよろしくお願いします。

2013年、皆さんそれぞれに新しい年を迎えて、それぞれ希望や目標を向かってスタートを切っていらっしゃるかと思います。

私は昨年、神学校卒業10年、結婚10年、年は39歳、まさにサンキューの1年だったんですが、今年は、なんとなんと40になるんですよね。

最初、私がこの聖望教会に訪れた時、まさに貧乏神学生、いや、とても神学生には見えない、もしかしたら江戸川か公園からやってきたんではなかろうか…いうような出で立ちだったと思うんですよね。

ですが、こうして皆さんに食わせてもらい、いや、受け入れてもらいまして、このくらいには成長させてもらいまして、本当にありがとうございます。まずは、感謝の意を表させてください。この聖望教会がなければ、今の私はなかったかもしれないですよね。


今年の2013年は、もし許されるなら、聖望教会で得たこと、学んだことをもって、さらに外への活動を広げていきたいなと思っています。
とはいえ、私にとって、また静にとってもなんですが、この聖望教会が、大切なホームグラウンド、帰るべき家になっているんですよね。
ですので、ぜひ、祈りをもって、応援していただければと思っています。


さて今日は、その聖望教会の皆さんと、私たちの原点、基を、もう一度、確認させてもらえればと思うんです。


今日のイザヤ書の箇所で、神様は、イスラエルに「あなたはわたしのしもべ」だと呼びかけているわけですが、「しもべ」というと、普通に考えれば、主人に従うものですよね。

ところが、この時のイスラエルというのは、直前にも描かれているとおり、従うどころか、こともあろうに、偶像礼拝をしているんですよ。
他の神様の方にいっちゃっているわけです。
にもかかわらず、神様は、そんなイスラエルに「あなたはわたしのしもべ」だと語りかけているわけです。


44:21 ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。
 わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。
 イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。


神様は、決して、イスラエルが従順だったから、律法に従っていたから、「しもべ」と呼んだわけではなかったんです。
「しもべ」と呼ぶ理由は、一つ。「わたしが、あなたを造り上げた。」これだけです。


私たちクリスチャンも、時に勘違いしてしまうことがあるのかもしれません。
聖書を読み、礼拝し、奉仕をし、さまざまな御言葉に従う中で、いつのまにか、そうした数々の行為によって、自分を神様の「しもべ」として認めよう、認められようとしてしまう時があるように思うんですよね。

しかし、それは反面、御言葉に従っていなければ、「しもべ」とは言えない、「しもべ」ではなくなる…というふうにもなってしまいかねません。


ですが、結論から言えば、そうではない…ということなんです。


どうでしょう。。。
すんなり納得できるでしょうか。それとも、えーっ…と思いますか?
新年早々、竹下が、また変なことを言い始めているのでしょうか。。。


もしかすると、イザヤも預言しながら、わけがわからなかったかもしれません。
だって、この時のイスラエルは、まさに偶像礼拝に走り、国はバラバラ、事実、神様も咎めて、バビロンに強制連行されていくわけでしょ。
どこが「しもべ」なんですか。神様、今のイスラエルは、「しもべ」どころじゃありませんよ…。そう思ったかもしれません。

あるいは、それでは、いったい、罪はどうなるんですか、十戒は、律法はどうなるんですか…当然のように湧き上がってくる疑問だと思います。

まさに、その疑問に答えるかのごとく、神様は続けてこう語るわけです。


44:22 わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。
 わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」


これが「恵み」というもの。
私たちが、神様のしもべになりうるのも、一方的な神様の恵みなんです。

ぜひ、愛する聖望キリスト教会のみなさん。今日は、まず、このことを、改めて、しっかりと掴んでください。ぜひ、覚えてください。


なぜ、このようなことを話すかといいますと、私、外部の教会や、クリスチャンとの接点が多いでしょ。。。

すると、必ずしも、このことが明確にされていない、ぼかされている、いや、実際、正直な話、歪められていることもあるんですよ。


献金しないのは、神様に従っているとはいえない…
伝道しないのは、神様に従っているとはいえない…
それは悪魔の働き、たっぷり脅しまでかけられて、
聖書読まなければならない、御言葉に従わねばならない、「ねばならない」でがんじがらめになっていたりとかね。

一方、それについていけなくなった人は、脱落者扱い、人格が否定され、その人自身も、あー、私は駄目、クリスチャンは無理です、神様は信じられません…にもなってしまうんです。


その昔、そんな教会の、ある牧師先生とお話をしたら、「私は、地獄に行くのが怖いから、イエス様に従っているんです」そう、おっしゃるんですよね。。。


どうして、こういう話になってくるのか、私には、そっちの方が、よくわかりません。
信じる信仰によって救われる、救いは恵みによるのであって、行ないによるのではない。
これは福音の大原則、クリスチャンとしての信仰の中心ですよね。

しかし、実際に、ごくごく一部ですが、そういう教会、牧師先生、クリスチャンたちもいるんです。

そういった教会から逃げてきた人たちと話したりもするんですが、そこで受けた傷や、恐怖感は、なかなかすぐには、消えないようなんですよね。。。


しかし、主人が、誰を「しもべ」にするか、しないか、その判断、決定は、「しもべ」の側にではなく、まず主人にあるわけですよね。
神様は、形作られた全ての人に向かって、「あなたはわたしのしもべ」だと呼びかけているわけです。
これが御言葉であり、まさしく福音なんです。


私も大学時代、教会から離れていたこともありましたけど、たとえ今、教会から離れて、放蕩中だったとしても、「あなたはわたしのしもべ」、クリスチャンとして失格ということはないわけです。

私たちの罪は、神様ご自身が、その罪の代償、代価を支払って、贖ってくださる。それが具現化したのが、イエス・キリストの十字架であるわけですよね。
私たちは、ただ信じて、受け取るだけなんです。


実に、ここに父なる神の愛、主イエス・キリストの恵みがはっきりと描き出されているわけです。
そして、そのことをイザヤを通して、伝えてくれているのが、聖霊です。


私たち人間は、どこかで「正しさ」というものを履き違えているのかもしれません。
私たち人間が考える正しさというのは、正しいか間違っているか、○か×か、白か黒かだけで判断してしまうことがあります。
ですが、律法の中心は、「愛する」ということ。これが神様がいう正しさなんです。

決して、ただ聖書の文字だけを捉えて、正しいか間違っているかで決まるような正しさではなく、愛するというそのハート、スピリットが、中心に加わっているわけです。


これが、ただの愛なら、別に聖書でなくても、この世の巷にもあるわけですよね。
でも、その多くは、「だから」の愛、条件付の愛です。私を愛してくれるから、愛する愛。
それは、条件次第で、「だから」愛せなくもなる愛なんですよね。

私たちが持っているのも、普段接しているのも、「〜だから」愛する愛です。
それで、神様の愛まで、いつの間にか「だから」の愛の感覚で考えてしまうのかもしれません。


しかし、神様の愛は、「にもかかわらず」の愛。
偶像礼拝しているにもかかわらず愛する愛、罪人にもかかわらず愛する愛、罪人のために十字架を背負ってもなお愛する愛。
「にもかかわらず」愛する愛なんです。


実際問題、私たちは、どのくらい御言葉に従っているといえるでしょうか。。。
もし本当に、聖書の御言葉にしたがって、100点満点で点数をつけるとしたら、何点くらい、御言葉に従っていると言えますか。

自分は100点満点、いつも完璧に御言葉に従っています!という方、いらっしゃいますか?
はい、誰もいません。

80点くらいでしょうか。60点くらいでしょうか。30点、赤点ぎりぎりでしょうか。

ちなみに、マザーテレサ、
インドのカルカッタで、路上で死に掛けているホームレスたちを献身的に救済活動をしていた彼女でさえ、自分たちの働きを「大海原の海の水、一滴程度に過ぎない」と言っているんですよね。


あー、マザーの働きが「大海原の海の水、一滴ほど」だとしたら、私たち、私のしていることなんて、一滴にもならない、水の分子一個程度のものかもしれませんよね。
それよりも、圧倒的に多くのできていないこと、多くの罪があるわけですよね。


でも、ところが、にもかかわらず、「あなたは、わたしのしもべ」だ…と神様は語り続けてくれているわけです。

だから、私も、こんな欠けだらけ、罪人にもかかわらず、神様のしもべでいられるんですよね。
すごいじゃないですか。感謝じゃないですか。
私たちが「しもべ」でいられるのも、ただただ、恵みなんです。
だから、みなさんも、間違いなく、神様の「しもべ」なんです。


44:23 天よ。喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。
 地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。
 林とそのすべての木も。
 主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現わされるからだ。


愛された喜びこそが、私たちの、最大の原動力です。

「ねばならない」ではなく、礼拝したい、賛美したいんですよね。
地のどん底よ。喜び叫べ。たとえ罪人であっても、たとえ大きなことはできなくても、立派とはいえなくても、地のどん底にも、喜びの叫びがあるんです。


先ほどの続き、マザーテレサは、こういいました。
「私たちの働きというのは、大海原の海の水、一滴ほどのことかもしれない。でも、もしその一滴がなくなってしまったとしたら、この海から、間違いなく、一滴分の水がなくなってしまうのです」

私たちの働きは、水分子1個だとしても、その水分子1個を忠実に果たしていくことなんですよね。


44:24 あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。
「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。…」


この前も、静とお正月に静岡に帰ったときに、清水の三保の松原で、初日を見に行きました。
残念ながら、まんまる太陽の姿では見れなかったわけですが、寒空の中で待ちながら、昇り来る太陽に光や熱さを感じる…、私たちが、この世で生きている、生かされているのは、この自然界の恵みが存在しているからなんですよね。
毎年、夫婦で、新年のはじめに、それを肌で感じ取るようにしているんです。
 
 聖書では、神様が6日、安息日まで入れても7日で、この自然界を創り上げたと書かれているわけですが、その造られたこの自然界は、決して、簡単にポンポンポンと出来上がっているわけでもありません。
これを天文学的に言えば、地球46億年、宇宙誕生137億年という桁外れの数字にもなる代物なんですよね。
それだけ、すごいものなんです。いうなれば、神様が1日ではなく、6日もかけて創り上げた自然界なんです。

それが、まず、はじめに、私たちが生きていく生命の土台として与えられているわけですよね。
この土台がなければ、私たちも生きてはいけない、存在すらしえないんです。


44:25 わたしは自慢する者らのしるしを破り、占い師を狂わせ、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにする。


 ここで言われている、自慢する者、占い師、知恵ある者とは、前に出てきている偶像礼拝者のことでしょう。
ですが、実際に、知恵や知識があるわけではありません。


彼らは、もともとは神様が作られた木を切って…


44:16 その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。
44:17 その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。


これを現代日本に置き換えれば、木ではなく、ウラン、核になるのかもしれないです。
ためしに、置き換えてみます。


44:16 その半分は「電気」を起こし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。
44:17 その残りで「機械を作って、売って、お金」を造り、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。

これが、正直、今の日本の姿だと思いません?
別に、核やお金を、神として拝んでいないかもしれませんが、それが生活の基盤、拠り所にしているのなら同じですよね。

私たちは違いますか。。。
いいえ、私たちも、また、その日本社会で生活している一員なんですよね。


12月の総選挙で、自民党が政権をとった訳ですが、いまや自民党の公約が、日本の政策と変わったわけです。
今は景気対策のみですが、やがて原発も再開、憲法改正へと進むんでしょう。
自民党の公約と、憲法改正案は、よく読んでおいた方がいいかもしれないです。

これは、決して自民党が悪いというわけではありません。
よくも悪くも、それも選択肢の一つ、選んだのは国民なんです。その結果は、私たち国民にも責任があるわけなんですよね。


よくね、政治家の人たちのために祈ったりもするじゃないですか。
ですが、今回、私自身、つくづく思わされたのは、まず私たち国民がまずちゃんと判断できるように祈らないといけないな…と思うんですね。

小選挙区制を考えたら、もしも自民党に反対するのならですよ、対抗できうる民主党に固めるしかない選挙だったんですよね。
票がバラければ、自動的に自民党が勝てる制度だったんです。
でも、その選挙制度を黙って見過ごしたのも国民、私自身もわからなかった、その一人です。

しかし、にもかかわらず、「あなたは、わたしのしもべ。」なんです。

44:26 わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。
エルサレムに向かっては、『人が住むようになる。』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる。』と言う。

昨年12月にも南相馬に行ってきました。

南相馬というのは、いくつかの小さな町が合併してできた市なんですよね。
おそらく過疎化を防ぐ意味もあって、市となって、がんばってもいたのでしょう。

聖望教会でサポートしている原町聖書教会の隣には、小高という町があります。
ここは原発20km圏内なんですが、今は出入りは許されるようになったんですね。
いくつかの古い建物こそ倒壊していますが、でも、それ以外の建物は、被害も少なく、しっかり残っているんです。

しかし、まだガスも水道も止まったまま、目に見えない放射線のために、復旧も進まず、そこで寝泊り、生活することは許されていません。
駅前の商店街、町では一番のメインストリートですよ。
たまに車は通っても、誰一人として歩いている人はいません。まさに誰もいない町です。

ところが、その通りにある1軒のお宅では、クリスマスのイルミネーションが飾られていました。
それこそ夜なんて誰もいない、見る人なんて誰もいません。
でも、そこにクリスマスのイルミネーションを飾るんです。その気持ち、わかるでしょうか。。。


また、あるお菓子屋さんの店舗には、「必ず小高で復興します!」という看板が掲げられていました。
この町が好きで、本当は、この町で暮らしたいんですよね。


実際問題の話、いつ戻ってこられるのか、何人戻ってこられるのかもわからない、戻ってきても、もともとが小さな町です。
商売が成り立つのかもわかりません。
いや、現実的には、きわめて、難しいとは思いますよ。
でも、なんとかして、復興してもらいたいではないですか。


福島の電気は東北電力、福島の原発は東京電力です。
これまで、その電気を使い、その豊かさを享受し、結果、3.11、福島を放射線で汚し、この神様が造られた、少なくともクリスチャンはそう信じている、この自然界を人が住めない場所にしてしまったのは、関東に住む私たちなんですよね。。。
少なくとも私は、私自身もその責任の一旦があると思っています。


それでも、「神のしもべ」と言えるんでしょうか。。。


それでも、「神のしもべ」なんです。にもかかわらずの愛です。


「あなたはわたしのしもべ。」理由は、ただ一つ。「わたしが、あなたを造り上げた」から。
「わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」

これこそが、私たちの基、絶対なる基盤、イエス・キリストの福音です。

どうでしょう。。。皆さん。決して、私たちの努力、行ないによるのではありません。
ただただ、神様からの恵みです。

44:28 ・・・エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる。』

今、まず、私たちの心の中に、その基、基盤がしっかりと据えられているでしょうか。
その基盤を、しっかりと確かなものにしてください。

この基の上にこそ、信仰生活も、教会も築かれていくものなんです。

もちろん、私たちには、南相馬を復興させる力は、到底ありません。
でも、この自然界を創り上げられた神様なら、復興させる力もあるわけです。
私たちは、そんな神様のしもべにさせてもらっているんですよね。。。


助けが必要なのは、南相馬だけではありません。
この市川でも、家庭、職場でも、様々な必要があると思います。
その中で、私たちにできるのは、水分子1個、本当に小さな小さなことかもしれない。

でも、この私も、神様のしもべ…、神様が形作ってくれたから。。。

どれだけできるか、何ができるかが、勝負ではありません。
一人一人にできること、個性、能力、やるべきことも、みな、みな違います。

その自分にできる、その小さな小さな働きを、懸命にやらせてもらおうではありませんか。



…ヤコブよ。これらのことを覚えよ。

 イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。

 わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。

 イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。 イザヤ書44:21


 

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1/20 聖望教会 南水ひとり語り

教会の近くにお住まいの熊澤南水さんの「ひとり語り」を今年も教会で演じてくれることになりました。

笑いあり、涙ありの人情物語。
南水さんの話芸をご堪能ください。

2013年1月20日(日) 2:00〜
聖望キリスト教会 市川市市川3-37-12
入場料1,000円
定員90名
お申し込み 047-321-3343(聖望教会 大竹)

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2013年01月11日

がんばってんのに!

…主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。
だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。
それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。 創世記4:4〜5

皆さん、人それぞれ違うと思うんですが、つい怒ってしまうパターンってないでしょうか。
私にある一つのパターンは、「頑張ってんのに!」です。

例えば、会社でいろいろな仕事を抱えて、いっぱいいっぱいなところに、別の頼まれ仕事が来たりとか…。
そんな仕事から帰り、一生懸命、夕飯作っているところで、O型マイペース奥様が帰ってきて、あーでもない、こーでもないと言われちゃったりとか…(笑)

まあ言われてしまうのにも、ちゃんと、それなりの理由もあるわけなんですが、積りに積もると、ぼっと火がついちゃったりして。。(^^;;
それで夫婦喧嘩になってしまう時もあります。。(笑)
私の怒りは父親譲りの瞬間湯沸かし器型なんですよね〜。
ったく、似ないでもいいところが似ていたりもして、すぐに冷めもするんですが、一番の被害者は奥さんかもしれないです(笑)

さてさて、そんな怒りが湧き上がってしまった時に、よく思い出すのが聖書に出てくる初兄弟喧嘩であり、殺人事件、兄カインと弟アベルの記事です。

弟アベルが捧げたものだけが受け入れられて、兄カインの捧げたものは受け入れられなかったんですよね。
そこで兄カインは憤り、怒りの鉾先は弟アベルに向かってしまったんです。

それにしても、なぜ神様は、カインの捧げ物を受け止めなかったんでしょう。。
アベルは最上のものを持ってきたとも書いてありますが、二人の捧げ物を比較して、カインの捧げ物を拒否したのでしょうか。
どうも、そういうことではなさそうです。

神様は決してカインを拒んでいるわけでもなく、怒りで顔を伏せているカインに語りかけるのです。

「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
…あなたは、それを治めるべきである。」

なぜ、カインが弟アベルを殺してしまうほどに怒ったのかを考えると、カインはカインなりに、頑張っていたんだと思うのです。
カインは決して粗品を持ってきたわけでもありません。
まさに、「がんばってんのに!」の怒りなんです。

ですが、何を頑張っていたのかというと、神様に喜んでもらおうという気持ちよりは、アベルに負けたくない、自分が認められたいという気持ちが大きかったのかもしれないですね。

同じく私も、自分が認められたい気持ちがあるように思います。
でも、なんらかの形で自分が頑張りが理解されないような時、「がんばってんのに!」という怒りが湧き上がっていそうです。

怒りの感情自体は自然な感情ですし、起きてしまった感情は外に出すことも大切なんですが、一方、行き過ぎれば人間関係を破壊していってしまいます。

もともとは喜んでもらいたいという気持ちがあっても、結果として、全く逆のことをしてしまうのです。
これでは本末転倒ですよね。

もし、カミさんに喜んでもらいたいなら、自分の頑張りよりも、カミさんが喜ぶようなことをしていくことなんですよね。。(^^;;

神様は、自分への捧げ物よりも、カインが内側に抱える、その負の力に気づいてもらいたかったのかもしれません。
それは、弟アベルを殺してしまうほどのものだったのです。

その怒りの感情がどこから来ているか、どうして怒りが湧いたのか、自分自身で見つめてみると、実はそれ程の怒ることではなかったり、溜まったストレスや過去のトラウマ…、別のことが原因だったり、怒りの感情も少し治まって冷静になれたりもします。

認められないことに腹を立てるのではなく、結局のところ、本来、やるべきことを成していくことでしかないんですよね。。。

「なぜ、あなたは憤っているのか。…」

瞬間湯沸かし器の私ですが、お湯沸かしちゃう前に、この言葉を思い起こしたいものですね。。

そう、スイッチ入れて、カチッ、ボッ!の、ボッの前にね…(^^;;

湯沸かし器…、もう知らない世代もいるかな(笑)


そこで、主は、カインに仰せられた。
「なぜ、あなたは憤っているのか。
なぜ、顔を伏せているのか。
あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。
ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。
だが、あなたは、それを治めるべきである。」
創世記4:7
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2013年01月05日

創造のステップ

神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。
すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
創世記2:2

昨日から仕事がはじまりました。
今年の1番の課題は、時間の使い方です。

これまで平日は会社で働きながら、休みの日に伝道活動をしてたんですが、最近は体力的にも無理がではじめてきました。集中力が持たないんですよね…、仕事中(笑)

いえいえ、これは説教準備にもいえることで、平日はまず無理。
このままだとどちらも中途半端になってしまうので、今後は、もっと積極的に有給休暇を活用して、活動していきたいと思っています。
でも、ちゃんと計画しないと…(^^;;

創造の7日間の記事を読んでいった時、ほんと神様は、計画的に創っているなと思います。
なんせ6日間でこの天地万物を創造し、最後7日目でちゃんと休みまで取るんですからね(笑)

さすがに、この創造の「7日」は科学と一致しないと思うかもしれませんが…、ところが、どっこい。

そもそも「時間」、時の流れというのは、絶対的なものではないんです。

それを証明したのが、かの有名なアインシュタイン大先生の「相対性理論」ってやつですね。
もし光の速さくらいで動く高速宇宙船ができたとすると、地球上の時計より高速船の時計の方が遅くなるというのですが、残念ながら、それを紐解く程の時間も学力も私にはありませんので、ご容赦のほどを。。。(笑)

少なくとも、私たち人間にとっての1日24時間と、天地に臨在する神の1日とでは、同じ1日でも全く違う次元の話だと私は考えています。

そんな時間的な問題よりも、創造の過程を見た時に、神様も、1日目、2日目、3日目…と、きっちりと必要な行程、ステップを踏みながら、この地球を創っているところに、注目したいなと思うんです。
いきなりポーンと完成形を創ったとは書いていないんです。

科学的にいえば…

初期地球には、溶岩ドロドロ状態で形がなく、暗雲のスモッグと水蒸気が立ち込めていました。
そこに隕石が衝突。
スモッグと熱が一緒に分散。
地上に光が差し込み、冷えた水蒸気が雨となって、初期の海ができます。
地表が冷やされ固くなり、内部圧力で陸地が隆起。ほぼ時同じくして、植物が誕生、光合成が始まり、大気がクリアに。
さらに冷え固まり、自転が今の1日24時間に定まっていきます…

と、これ以上は、長くなるのでやめますが(^^;;、ぜひ、創世記の記述とも見比べてみてくださいね。
一致している部分が見えてくると思います。

こうした一つ一つのステップが、全て自然現象、偶然、偶発的に起きたとすれば、それは宇宙誕生137億、地球誕生46億年をかけた超ウルトラ奇跡でしょうし、聖書では、その超ウルトラ奇跡が、創造主なる「神」の業として伝えているわけです。

少しは創造の「神話」ではなく、「現実」のことてして見えてくるでしょうか…(^^;;

聖書の話は、決して宙に浮いたような空想的な物語ではなく、しっかりと現実の上に結び付いたものなんですね。

この自然界を目の前にした時、地球物理学では46億年の奇跡、聖書では神が7日間「も」かけて創った、壮大ないのちの絶景が拡がっているわけですよ。
これが、はじめに備えられた、神の恵みです。

すごいと思いません??

福島の原発事故を思う時、その自然界をたちまち人の住めない世界へと変えてしまったわけですから、やっぱり考えさせられますよね。

さて、そんなわけで…

神様ですら、1日目、2日目…、しっかり6日かけて、この地球環境を創ったわけです。

ローマは一日にしてならず。。

決して、マジックのようにジャジャーンと出てきたわけではありません。
その7日間は、人間の科学的な目では46億年もかかる代物です。

仕事も伝道も、実は同じだと思うんです。
神様にたのんでみても、いきなりポーンとはできないものですよね。

私もまた、1日目、2日目…と、しっかりと必要なステップを踏んでいくことなんだと思うわけです。

あ、このブログも…ね(^^;;(笑)


あなたは知らないのか。聞いていないのか。
主は永遠の神、地の果てまで創造された方。
疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
イザヤ書 40:28


posted by holyhope at 15:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の小話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする