2013年01月03日

天地創造と科学

初めに、神が天と地を創造した。創世記 1:1


新年の思いつきで書き始めてから気づいたのですが、どんな順番で書いていくのがいいのかな…と。
はい、全くノープランで始めています(笑)



ですが、初回、自然界の話が出たので、少し天地創造の話をしてみようかと。。。

キリスト教界と科学は、ダーウィンの進化論以来、どこか半ば喧嘩別れしているようなところがありますが、私は非常に残念なことだと思っています。

…ってな話をいきなりすると、クリスシャンの方の中には、びっくりしてしまう方もいるかもしれません。
でも別に、進化論を認めようって話ではないですから、ご安心を。。。

しかし、決して聖書と科学が矛盾、対立しているばかりでもないんです。
クリスチャンの間にも誤解があるんではないでしょうか。
今回は、そんなことを知ってもらえたらな…と思っています。



さて、時に科学の世界では、前提として、方程式に「神」を持ち出さない、持ち出せないということがあるんです。

たとえば医学。

クリスチャンでも、お医者さんにはなりますし、病院に受診もしますよね。。。

クリスチャンがお医者さんの治療を受けることは不信仰でしょうか。

そうではないですよね。


クリスチャンも、お医者さんが万全を着せるように神様に祈ります。

ですが、そのお医者さんが、もし手術で患部に手を当て、「神様、どうぞ癒してください。信じます。アーメン」で終了したらどうでしょうか。。。



おいおい、ちょっと待ってよ…って話になるじゃないですか(笑)。

別に医学が、神の癒しを否定しているわけでもありません。
実際、医学的には余命3か月と宣告された癌患者が、医師が認める事実として、直ってしまうこともありうるんです。(私の叔父がそうだったんですが、その話はまた今度…)



しかし、そんな神や奇跡が働かないことを前提に、病気を治療する方法を探るのが医学、神が働かないことを前提に人命救助に最善を尽くすのが医療なんです。

実はこれは説教も同じなんですよ。
もちろん神様の導きを求め、信じつつ挑むわけですが、説教準備に当たっては、神の助けが得られないつもりで最善を尽くして準備するんです。
当たり前ですよね、畏れ多くも、神の言葉を取り次ぐわけですからね。
そこに間違いや自分の勝手な思い込みがあってもならんのです。
少なくとも、私の場合には、説教準備なしに語ることなんて、よほど突発的な必要が発生しない限り、ありえません。



進化論も同様です。

この地球上には、気候風土によって、様々な多種多様の生物が生息していますよね。
また地球が形成されるステップにおいては、今とは違う、様々な環境が存在していました。
これは地球物理学的にはもちろん、創造論的にも、今の地球環境がいきなり最初から出来上がってはいないことは明らかだと思います。



そういった多種多様の生物を調べていったときに、
仮に神が働かないとしたら、生物は環境の変化に応じて、自力で変化していった…と考えたのが「進化論」です。

繰り返しますが、あくまで仮に神が働かなかったとしたら…の前提での仮説、仮定です。



どうぞ、クリスチャンのみなさん。
神が創ったと聖書が書いているのに、神が働かないなんて失礼だ!!なんて怒らないでくださいね。。。(>_<)



これが私にとって、非常に残念なことなのです。

もし皆さんの教会に、まだ神様を信じていない人が来たら、失礼なのでしょうか。。。
いやいや大歓迎の話ですよね。

「信じられない」ことに憤りを覚えますか?
いえいえ、信じられるように、神様の導きを求めて、祈ると思います。



創造主の「神」という存在が信じられない人が、生物が自力で進化したと考えても、ある意味、不思議ではないですよね。

これならクリスチャンの方にも、十分、納得できるかと思います。



しかし、一方で、進化論が科学的に証明されているわけでもないんです。
本物の科学は証明されていないことを、これが正しいと結論付けるような横暴は振るいません。



その一番の証拠になっている生物が、実は、私たち人間なんです。

つい最近まで人間に最も近い生物として、かつて「旧人」と称された「ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)」が、人類の祖先として有力視されていました。
ところがDNAの研究が進み、この「ネアンデルタール人」と今の私たち人間とのDNAを比較したところ、似ていても、突然変異で変化するにはあまりにも差がありすぎて不可能という科学的な結論が出ています。ですので、今は「旧人」とは呼ばれなくなったわけですね。

あ、これは科学での話ですよ。
科学の世界は、科学の言葉で立証する必要もあるんですよね。



科学的にいうなれば、私たち人間(ホモ・サピエンス)は、人間に最も近い生物より桁を外れて、ずば抜けた存在といえるかと思います。



一方、創造論的に言えば、それだけ私たち人間は、非常に巧みに創られていると言い換えることもできると思います。
反面、これは「進化論」という一つの仮説が打ち出されて、科学が熱心に研究を進めてきた成果でもあるわけです。



聖書では、「人は土から生まれ、土に帰る」とも書かれていますが、もしも神様の働きを計算に入れないで考えるとすれば、土の成分と微生物から「進化していった」という表現にもなってくるわけですよね。
あくまで神がいなかったとしたらの仮定、仮説の話ですよ。

そんな進化論を前提にしている科学者は、今もなお、なんと「土」の中に、人間のルーツになりうる生物の化石を懸命に探し求めていたりもするんです。



これも、なんか奇妙というか、不思議じゃありませんか。。。

クリスチャンは聖書には精通しているかもしれません。
でも、科学者も決して机上の空論を述べているのではなく、真摯に、聖書がいう神様が創られた被造物を研究しているんですよね。

この両者が対立してしまうのは、非常に残念な話。お互いにとって損のように思うんです。

私も科学を専攻したわけではないので、聞きかじりの知識であり、諸説もあるんだと思います。

ですがお互いに、よく見もせず、聞きもせず、ただ否定するだけでは、何も生まれてはきません。
必要なのは、対立ではなく、対話だと思うんですよね。

その橋渡しをするのが、伝道者としての使命の一つかな…と勝手に思っています。(笑)



聖書では、かなり大胆に生物の種類が省略されてしまっていますが、その大胆に省略されていることを念頭に置けば、実に出てくる順番は、進化論とあまり変わらなくなります。

要するに、創造主なる神の存在を信じているか、いないかだけの違いなんです。

そればかりか初期の地球が形成されていく行程や、環境の変化、その環境に応じて、まず植物が登場し各生物が登場してくる絶妙なタイミングは、よく見比べれば、少なからず科学と一致してきます。

なんとなんと、どんなに少なく見積もっても、科学の「か」の字もない3000年以上昔に書かれた創世記の記述と、現代科学の研究が一致してくるなんて、すごいと思いません???



神が創造されたこの世界が、どれだけすごいかを教えてくれているのが、被造物を研究している科学ということにもなるわけです。

残念ながら科学(人間の力)で全てを見極めることもできないと思いますが、究極の科学は、聖書と一致すると私は思います。

あっ…、念のため申し上げておくと、聖書の創世記で書かれていることも、全部ではないですからね。
それは、この自然界を見渡せば一目瞭然。
そんなに単純には創られていないし、とても創世記の1章では語りつくせない、私たちの理解や想像を絶するような規模の話なのです。
まさに神のなせる業。
満天の星の数を数えれないように、もし、まともに説明したら、聖書よりも分厚い本になるでしょう。




実に、この自然界には、本当に多くの生物が存在しています。
知れば知るほど、これはまさに神秘です。



そして創造論と進化論、どちらにしても、最後に登場してくるのが人間なんです。
その前提として、この全宇宙、地球という星の自然環境が形成され、その星に生息するあらゆる動植物、生物達、今のこの自然界が存在していなければ、人間も決して存在しえないのです。

進化論的に考えても、宇宙誕生から人間が誕生するまでには単なる偶然では済まされない、超、超、ウルトラミラクル、天文学的な確率で起きたスーパー奇跡の連続がなければ、誕生しえない存在であり、創造論的に言っても、これまた神の超、超、ウルトラ的なスゴ業によって創られた特別な存在なんですよね。
どちらも変わりない、本当に紙一重なんです。



…というわけで、長い話を短くすれば、
そう、たとえ、どんなに自分が平凡な存在に思えたとしても、私もあなたも、決してなんとなく生まれた存在ではなく、この全宇宙の中で、超、超、ウルトラミラクル的に生まれた存在なのです。

それを聖書では、神がこの世界も人間も創り、神に愛された存在だと伝えてくれているわけです。



…神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。創世記 1:31

 
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2013年01月02日

はじめに…


初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ヨハネ1:1

今年は一つの試みとして、聖書のことばから感じることを、少しずつ配信してみようかと思います。
…と言っても、はじめからなんですが、毎日は無理だと思うんで、あしからず(笑)。
聖書を読むことはできても、なかなか書くことは難しいものだったりします。

でも、感謝なことに、「初めにことば」があるんですよね。
私が完全自力で、人を励ましたり、慰めたり、力付けたりする言葉を書いて行くとしたら、えらいことです。というか、本当に無理だと思います。
なので、毎日必要だと思う人は、ぜひ聖書を読んでください(^^;;

「初めにことばがあった」
それは、聖書のいうところでは、神のことばであり、またイエスキリストという存在にもなってくるわけですが、まず、聖書では、神がことばで、この自然界、宇宙も、地球も、またあらゆる動植物も、そして人間も創ったと書かれています。

そんなことを言われても、いきなり信じられない人も多いとは思いますが、
ですが、信じていても、信じられなくても、人間が登場する「初め」には、この自然界は存在していたのは頷けるんじゃないかな…と思うんです。

自然界は、時に厳しくもありますが、暖かな太陽の光を浴び、風を感じ、その中をたくましく飛び立つ鳥たちの姿、また、繰り返して押し寄せているようで、決して同じではない波の織りなす造形美を見ていると、不思議と力が抜け、安らぎや癒しを感じるんですよね。
この自然界によって私たち人間も生かされている一員なんです。

少々お金がなくたって、何が足りなくたって、私たちはどうにか生きていけますが、この自然界なしに私たち人間は誰一人として、生きてはいけません。
どんなに優れた人であっても、たとえ、どんなに科学文明が発達しても、誰一人として自分一人の力で存在している人もいなければ、生きている人もいないのです。

この現代社会でストレスを抱えていない人は少ないと思います。人生には、時として、自分一人でどうにかしなきゃと、悩み、あくせくしてしまうこともあるわけですが、そんな悩みや問題も、実は、自分一人で解決できるわけでも、もしかしたら一人で解決しようとする必要もないのかもしれません。
ただ、ごく身近に「初め」からある恵み、助け手、存在を忘れているだけなのかもしれないですよね。

「初め」にある恵みを受けて、私たちは生かされている存在である覚えたいものです。

…すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。
このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった…!

ヨハネ1:3〜5
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2012年12月31日

竹下静プロフィールビデオ

突然ですが、うちの奥さん(竹下静)のプロフィールビデオです。
夫婦で、メッセージ&音楽伝道活動しています。

2012年もお世話になりました。2013年もよい1年となりますようにお祈りしております。
タグ:竹下静
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2012年12月26日

「闇の中に輝く光」ヨハネ1:1〜5,14

(2012年12月9日 南相馬・原町聖書教会)

恒例のあいさつとなりつつありますが、改めまして、みなさん、ただいま。

千葉市川から帰ってきました竹下 力です。

私も静も、働きながらの活動している関係で、なかなか帰ってこられなかったんですけれども、ようやく帰ってくることができました。
今回で4回目、まだまだ全然、南相馬のこともよく知らないのに、不思議と、本当に実家に帰るのと同じ感覚なんですよね。本当ですよ。

名は体を現すとも申しますけれども、通称「ただいまの教会」という名前が、この教会の体を現し、また私たちの心にも実家のような思いを与えてくれているのかもしれないです。

「ことば」というものには、不思議と、そういう力があるんですよね。

…と半ば無理やり、不思議と今日の聖書箇所へとつながる訳ですが、この12月、クリスマスシーズンということで、ヨハネの福音書からお話してみようかなと思っています。


1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。


いきなり、この箇所を読めば、わかるようで、なんだか、ちっともわからん…という感じなんですが、このヨハネという人の文章は、非常に文学的というか、芸術的なんですよね。
この「ことば」とは、もちろん、イエス・キリストのことを指しているのですが、これを学問的、理屈で捉えようとすると、かえって難しいかもしれないです。


試しに、ある聖書注解の一部を読んでみたいのですが、


 〈初めに,ことばがあった〉(1).〈初めに〉は,創1:1を想起させるものであるが,ここでは創造の初めではなく,〈ことば〉(〈ギ〉ロゴス)が創造に先立って存在していたこと,すなわちロゴスの先在性をうたっている.
 
なんだか、わからないものが、余計に分からなくなってくるというか…、
こんな説明を、1分も続けていれば、うちの奥さんだったら、容赦なく、寝てしまうかもしれない…。

わからないものを、いかに、わかりやすく、静さんが寝ないように語るかが、伝道者としての腕の見せ所、使命、役割かもしれないですが、こうして「言葉」で何かを伝える、聞いてもらう、表現するということの中には、さまざまな創意工夫や、人知れぬ苦労があったりもするものですよね。

これは福音書ですから、ヨハネは、イエス・キリストについて伝えたいわけですよ。
そのヨハネが、出だしから、いきなり、「ロゴス」の先在性だとか、小難しい哲学的な説明したくて、こういう表現を使ったのか…というと、ちょっと疑問なんですよね。

1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

この表現なんて、何か絵が浮かんできそうな、まさに芸術的な表現じゃないですか。

あたかも芸術家が、何に感動し、それをどうにか伝えたくて、でも、それがうまく説明できずに、絵や歌や音楽、様々な表現手段を駆使しながら言い表していくように、ヨハネも、イエス・キリストという存在を、見て、聴いて、触れた時に、ことばを駆使しながら、どうしても伝えたい感動があったんではないでしょうか。

私たちも、もっと感覚的に、シンプルに捉えていっていいように思うんですね。

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

神は、光あれといわれた。すると、光があった…。
神様はことばで、この全宇宙、全世界を創り、私たち人間もことばで造られた…、そう聖書は語るわけですが、ユダヤ人たちも、それをことばで聞き、当時は印刷ないわけですから、多くは口伝、ことばで伝えてきたわけです。

神様も、ことばで、人間たちにご自身を表してきたんですよね。

アブラハムも、はじめに神のことばを聞き、イサク、ヤコブ、子、また、その子へと、ユダヤ人たちは、ことばで伝え、ことばで聞いてきたんです。実に、ヨハネ自身も、はじめにことばで、神様のことを聞いているのです。

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。


ちょうど金曜日にも大きな地震がありましたが、自然界は時に厳しくもあります。
ですが、一方で、自然に癒されたり、自然の恵みをいただいて、私たちは生かされてもいるわけですよね。

少し話はそれるかもしれませんが、年末年始に静岡に帰った時には、夫婦で、よく日の出を見にいくんです。太陽が昇ってくる前というのは、これまた寒かったりするわけですよ。
ところが、やがて暗かった空が赤ばんで来て、暗闇を引き裂くように、太陽が強烈な光をもって、顔をのぞかせる。その時の太陽の光って、ものすごく暖かいんですよね。
そこに熱さ、いのちを感じるわけですよ。

古くから日本人の場合には、そんな太陽そのものだったり、海でも、森でも、果ては鰯の頭まで、一つ一つのものを神として拝んでしまっているのかもしれませんが、でも、あくまで考えようによってはですよ、自然界のあらゆる森羅万象、八百万の中に、「神」という存在、「神」の性質を感じる感性には優れたものがあるのかもしれない。

…なんてこというと、偶像礼拝を肯定しているみたいですが、決して、そうではないですからね。

パウロもまた、「神の、目に見えない本性…は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知」られていると語っていますが、ただ知らない、わからないがゆえに、太陽そのものを拝んでいるだけで、その感性自体は、必ずしも否定されるものではないと思うんです。
実にその延長線上、その先に、太陽も山も海も創造した「神」という存在がいるわけです。

昇り来る太陽にエネルギーを感じ、飛び立つ鳥たちに美しさを覚え、自然界の全てのいのちあるものに感動する…、それはまさに、それらを創り上げた神を賛美し、まさしく霊とまことによって神を礼拝するということにもなるわけです。

 1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

私たちも、また、間違いなく、この自然界で生かされている一員です。
それは、今、南相馬、福島で暮らす皆さんが一番、肌で実感していることかもしれない。

冗談抜きに電気や原発がなくたって、人間は生きていけます。ですが、事実として、太陽や海や山、この自然界が生み出す様々な恵みがなければ、誰一人として、私たちは生きてはいけないんですよね。

ところが、とかく人間は、自分の力で生きていこうとするのかもしれない。自分ひとりと言わなくても、人間たちの力で生きているかのように錯覚してしまうのかもしれません。

しかし、どんなに技術が発展しても、多くの人がストレスや悩みを抱え、年間自殺者3万人以上、自らいのちを絶ってしまう…これが今の日本社会の実情でもあるわけです。

事実、私たちは、誰一人として、自分ひとりの力で生きている人などいないし、誰しもが神が生み出した自然界の恵み、いのちを受けて、いかされているわけです。

そんな、いのちを生み出し、光を生み出す神の言葉であり、神ご自身。
それをヨハネは、どこに見出しているかというと、闇の中で見出したというわけです。


1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。 

時に、私たちは、漠然とでかまいません…、神様のことを、どこに見出しているでしょうか、
どんなところにいる存在として捉えているでしょうか。

そりゃ神様ですからね。
なんとなく、はるか上の方で、一点の曇りもない、まばゆい光の中で暮らしている、そんなふうに感じている部分があるように思うんです。
でも、実は、それは私たちが神様をどこか遠くに離してしまっているだけで、実は、私たちを取り巻く自然界と同じように、私たちのごくごく身近、隣り合わせに、神は存在しているんではないのでしょうか。

少なくとも、ヨハネは、ここに光はない、ここにいのちはない、ここに神などいないと思えるような「闇」の中で、光は輝いている…すなわち神は存在しているというわけです。

私たちにとっての闇とは、どんな闇でしょうか。。。

様々な人生の苦しみ、悲しみ、不幸と呼べる出来事かもしれません。
あるいは、過去の失敗や後悔であったり、自分でも嫌いな自分、まさに、罪人と呼べる自分かもしれません。
私たちは、そんな自分の闇に対して、ここに神はいない、こんな自分は愛されない…、と勝手に思い込んでいる部分があるかもしれません。

しかし、その「闇」の中にこそ、神の光が輝いているというんです。
闇は、これに打ち勝たなかった…!

本当でしょうか。そんなことがあるんでしょうか。。。

ことばは、目には見えません。神様も目には見えません。
ところが、その、ことばが人となり…、私たちの間に住まわれた。
すなわち、イエスキリストです。


ことばが人となるって、これもまた、わかるようで、なんじゃあ、わからん…言う気もしますが、実は、私たちも、言葉で考え、言葉で行動します。ある意味、私たちも、言葉が、からだを有していると言えると思うんですよね。

でも、私たちの中には、いいことばばかりではなく、悪い言葉、嫌なことば、偽りの言葉もあったりもするわけですよね。
しかし、正真正銘、完全、神のことばが肉体を持った人。それが、イエス・キリストです。


しかも、その神のことばは人となり、私たちの間に住まわれた。

私たちの間…、わかりやすく例えて言うなら、この南相馬、原町に住まわれたんです。


住まわれたと言うのは、天幕、幕屋を張るということばです。
幕屋というと旧約時代の礼拝所ですので、何か特別なように思えてしまうかもしれないですが、遊牧民たちの一般的な住宅形式でもあるわけですよね。早い話、移動式の仮設住宅なんです。決して、神様の為に建てられた立派な神殿でも、豪華な宮殿でも、一流ホテルのスイートルームでもなく、私たちの間、隣の敷地にテントを建てたというわけですよね。


実は、私自身、クリスマスという時に、今ひとつ、ピンと来ない部分もあったんです。
それは何かと言いますと、救い主の誕生、それはすばらしいことなんですけど、クリスマスというときには、イエス様も、まだ赤ん坊じゃないですか。

何もできないどころか、マリヤとヨセフがいなければ、生きてはいけないんですよね。
ところが、その赤ん坊のイエス様は、神の栄光を捨て、貧しい家庭に生まれ、しかも十字架で死ぬために、生まれてきた…なんて言われてしまうと、なんだか、かわいそうというか、あわれというか、悲しい話に聞こえてくるんですよね。
そんな赤ん坊に、何を期待するねん…みたいな。


しかし、ことばは人となり、私たちの間に住まわれた。

ことばが人なると言うとき、神様の特権で、いきなり完成形の大人としての体を持って現れたのではく、赤ん坊から、さらに言うならマリアのおなかの中から、はじめるわけです。

さらに、イエス様が公に活動し始めたのも、30になってからです。若くて体力バリバリの20歳ではなかったんですよね。
実は、ここに神様、イエス様の意思、選択があったのではないでしょうか。


当時のベツレヘムの馬小屋も、ナザレの住居も洞窟を改造して造られたものです。
日本で洞窟というと、じめじめしていて、こうもりか何かが住んでいそうですが、日本と違って、雨も少なく、当時のイスラエル、貧しい一般庶民の間では、それがスタンダードな暮らしだったんです。


事実、イエス様時代のナザレには、洞窟の住居跡しか発掘されていないんです。
ですので、ナザレでは洞窟の家が普通。その中で大工というのは、洞窟を住めるように改造する家具職人、おそらく近くの町へ出稼ぎにも行っていたと考えられています。


肉体を持つ以上、食べるためには、働かなくてはなりません。
イエス様も、少年になり、働けるくらいの歳になったとき、父ヨセフを手伝いながら、大工として働きはじめるわけです。
そこには私たちと同じように、苦しいこと、辛いこともあったかもしれませんが、楽しいこと、嬉しいこともあったはずでず。


…ことばは人となり、私たちの間に住まわれた。

私たちと同じ暮らし、同じ生活、ごくごく平凡な暮らし、貧しいといえば貧しいかもしれない。でも、そこには、人としての喜びや幸せがあったはずですよね。

聖書では、この時の生活については伝えていないわけですが、イエス様は、間違いなく、家族や仲間と喜びも分かち合いながら、30までは、ナザレで暮らしていたんです。ここにはイエス様の望み、イエス様の意思があったはずです。
しかし、人としての人生経験もそれなりに積んで、30になり、時が満ちて、家族だけ、ナザレだけではなく、全世界に光をもたらすために、活動を開始したわけです。


イエス様は、事実として、遊女、取税人(言うなればやくざですよね)…多くの罪人たちと共に食事をし、時に笑い、時に涙もしながら、彼らを赦し、神の愛を伝えたんです。当時の宗教家たちから反感を買っても、なお愛したがゆえに、ついには十字架を背負うことになっていくわけです。

確かに十字架は、世界で最も苦しい死刑、苦しみそのものです。

でも、イエス様は、あえて、その十字架に挑んだわけですよね。逃げようとすれば、逃げられる状況だったにもかかわらず、そこに踏みとどまるわけです。
それが、ゲッセマネの祈りです。

なぜか。。。
もし逃げてしまえば、多くの罪びとたちが、また神から愛されない、闇の世界にもどらなくてはならないからです。

そんな中、ヨハネは、十字架のふもとにまで行った唯一の弟子です。
一見すれば、正しくも、立派にも見えるかもしれません。

ですが、このヨハネの福音書をよく見てみると、この時のヨハネは、「イエスの弟子」としてではなく、「大祭司の知り合い」として、その場にいたことが書かれています。(ヨハネ18章)。

イエス様が捕らえられて、大祭司カヤパの官邸に連れて行かれたとき、ペテロは周りにイエスの弟子だと言われて否定してしまうんですよね。ところが、一緒にいたヨハネは、門番とも顔パス、お咎めなしですんだんです。
なぜならば、イエスを十字架につけた張本人、「大祭司の知り合い」だったからです。

ユダは、公然と裏切り、ペテロは、公然と否定してしまいました。
しかし、ヨハネは、影で裏切り、影で否定していたんです。

これが闇の自分…、それでいて真実なヨハネの姿だったんです。

でも、イエス様は、十字架の上から、ヨハネを見つけると、母マリヤを託すんですよね。
イエス様だって、馬鹿じゃない。ヨハネが、まともにイエスの弟子だとわかれば、何事もなく、その場になんていられないはずなんです。何かが裏がある。

でも、イエス様は、黙って、赦すんです。そんなヨハネを信じるんです。それでも、ヨハネを愛するんです。

ここに実は、言葉にならないことばが、イエス様とヨハネの間にはあったんです。

…わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

これはイザヤ書にある神様の言葉ですけれども、まさに神のことばが人となり、人を生かす、いのちの光が、闇の中で確かに輝いていたんです。

沈黙の中にも、ことばってあるんですよね。。。
ヨハネも、自分が大祭司と知り合いだったなんて、黙っていれば、誰にも知られずにすんだのかもしれない。でも、マタイ、マルコ、ルカと福音書が書かれ、伝えられていく中で、伝え切れていないことばがある、ヨハネには語らずにおれないことば、いのちのことばがあったのではないでしょうか。


私たちの「闇」って、どんな「闇」でしょうか。それは、人それぞれ違うと思います。
どんな場所で、闇を感じているでしょうか。。。

いや、実は、私たちが勝手に闇だと思い込んでいるだけかもしれないですよね。
その闇の中にこそ、光は輝き、沈黙の中にも、ことばがあるんです。

…私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた。


イエス・キリストは、残念ながら、今は目で見ることはできません。
でも、闇もある私たちの人生の中で、今日も私たちの間に、イエスはおられます。

たとえ、私たちが闇だと思う唯中にあったとしても、すぐそばに、イエスがおられます。

イエス・キリストは、ありのまま、真実な私たちの姿を見たうえで、
表で格好付けることはない、背伸びをすることもない、
わたしは、あなたを愛しているよ、この場、ここから、一緒に歩いていこう。。。
そう語りかけてくれるお方です。


…初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった…!!


そんな闇の中に輝く光、イエス・キリストと出会えるクリスマスとなりますように、お祈りしています。
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2012年11月25日

福音のスパイラル(Tヨハネの手紙 4:1〜2, 9〜12)

(11/25 シャローム福音教会 他)

みなさん、おはようございます。

さて、今日で11月最後の日曜日になりました。日に日に寒くなってきていますが、皆さん、お変わりないですか?


いよいよ今週土曜からは12月、クリスマスシーズンを迎えようとしています。
この前の休み、妻の静と一緒にショッピングモールに出かけたんですが、早いもので、もう大きなクリスマスツリーとか飾られているんですね。妻の話では、もう今月のはじめから出てるよって言うんですが、商魂たくましいというか、教会より早いな…なんて思うんですが、教会でよく本当のクリスマスを知ってください…なんて呼びかけるじゃないですか。でもその前に、世の中、すでにクリスマスみたいな?日本って、そういう意味では不思議な国かもしれませんね。

でも、実は、私自身、クリスマスって、今ひとつピンと来ない部分もあったんですよね。

だって救い主といったって、生まれた時には、赤ん坊じゃないですか。確かに、救い主の誕生、それはそれで、すばらしいんですけど、赤ん坊のイエス様が何をしたわけでもないんですよね。むしろ、マリヤとヨセフ、大人が世話しなきゃならんのですよ。
でも、その意味を教えてくれているのも、今日の箇所でもあるのかなって思います。


さて、今日は、福音のスパイラルとタイトルを付けさせていただきましたが、「スパイラル」とは、螺旋、渦巻きのこと。また渦巻状に連鎖して上昇していく様を表しています。
「負のスパイラル」なんていうと逆ですね。報復の連鎖のように、マイナスにマイナスを重ねて言ってしまう様子を表します。
もちろん、今日の話は、「負のスパイラル」ではなく、「福音のスパイラル」。神様の愛の中で、私たちが上昇していく、愛のスパイラルと名づけてもいいのかもしれません。


実に、このヨハネの手紙では、言葉を変えながら、同じことが繰り返されているんです。それは、イエス・キリストの十字架であり、神の愛、そして、私たちが愛し合うということ…、それを一番端的に表しているのが、今日の箇所かなと思い、代表的に選ばせていただいたんですが、クリスチャンの皆さんにしてみれば、きわめて基本中の基本、ある意味、当然のように思う内容かもしれません。

しかし、ヨハネは、決して、信仰の入門書や、伝道メッセージを書いているわけではなく、紛れもなく、クリスチャン、教会に向けて、この手紙を書いているわけです。
それはなぜなのかと言うと、もうひとつヨハネが繰り返している、異端への警戒があったわけです。


2:21 このように書いて来たのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからであり、また、偽りはすべて真理から出てはいないからです。

私たちは、まず、このことを真摯に受け止めておく必要があると思います。
つい、私たちは「異端」と言われても、私たちとは関係がない、私たちは大丈夫と思ってしまいがちなのかもしれません。でも、ヨハネは真剣に警戒しているわけです。

この手紙の一番最後は、5:21 「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」と締めくくられているわけですが、手紙なんだから、もっと気の利いた挨拶もあるだろう…って気がするじゃないですか。

でも、それだけヨハネは切実に危機感を感じていたのだと思います。自分は大丈夫でも、周りが、同じ危険に巻き込まれる可能性は、決してゼロではなかったわけです。


4:1「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。」

と、出てきますが、事実として、イエス・キリストを信じているようで、福音の原点から外れていくクリスチャン、教会もあったんですよね。


ごくごく簡単に言うと、ヨハネがこの手紙を書いた当時には、「グノーシス主義」と言って、霊と肉とに分けて、霊魂こそが善で、この肉体は全て悪だと考える思想があったんです。そのグノーシス主義の思想が、キリスト教会の中にも入り込んできたんです。


…なんて、「グノーシス主義」だなんて説明が始まると、うちの奥さんなんか、すぐに眠くなり始めるらしいんですよ。
皆さんは大丈夫でしょうか。。。
これを、いかに、わかりやすく、奥さんが寝ちゃう前に、説明できるかが伝道者としての役割、使命なのかもしれませんが、この手紙を理解する上で、手がかりになることなんで、ちょっとお付き合いくださいね。


この「グノーシス主義」では、肉体は悪だと考えますから、キリストも肉体を有したのではなく、ごく普通の人間、ナザレのイエスがバプテスマを受けた時に、キリストの霊が乗り移り、十字架で死ぬ直前に肉体から離れた…と考えたわけですね。
私たちからすると、かえってわからん…という話になるかもしれませんが、ギリシア哲学の影響もあって、当時のギリシア世界の人たちには、妙に説得力があったんです。

ですので、キリストを信じているようで、実はイエス・キリストの受肉(誕生)はもちろん、十字架、復活も否定してしまったんです。
 
 このグノーシス主義では、霊だけが高められ、霊だけが救われればいいわけです。そこで、肉体のすることはろくでもないと極端な禁欲主義に走るか、あるいは、逆に、罪は所詮肉体のもの、何をしてもかまわない…極端な快楽主義に走る人たちもいたようです。
 ほんのちょっとした狂いが、実は、大きな違いをもたらしていく結果にもなるわけです。


 そうした背後があって、ヨハネは、福音の原点を語っているわけです。
 
 4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。


 この前の節では、「愛のない者には、神はわからない」とまで出てきますが、でも、ここで言われているのは、愛は愛でも、無差別無償に与える神の愛です。決して、ヨハネも最初からそんな愛を理解していたわけでもなければ、自らが持っていたわけでもありません。それがイエス・キリストによって示されたんだというわけです。

たとえ人間に罪があるとはいえども、本来、この人間の肉体も、神が造られたものです。
イエス・キリストもまた、肉体をもって生まれ、その肉体をもって、肉体を持つ人を愛したわけです。言葉を変えれば、人として生まれ、人として人を愛したんですよね。
決して、霊とか、思想とか、概念だけの世界ではありません。


目に見えない神が、目に見える形で、人を愛するためには、借り物ではない、完全オリジナル、ご自身の肉体を持つ必要があったわけです。
それがゆえに、人間に養われなければならない赤ん坊から、母マリヤのお腹のなから、人をはじめたんですよね。

当然、肉体を持つというのは、食べていかなくてはなりません。
ナザレという小さな村で、大工として働き、そこで私たちと同じように、人生の痛みや悲しみ、苦労も含めて、人としての様々な経験を積むわけです。そういった経験と体力が一番バランスが取れたような30歳で活動を開始したわけです。

そして、事実として、罪人の友となり、共に食事をし、時に笑い、時に涙を流しながら、罪人たちを赦し、愛したがゆえに、その罪の責めを負い、その肉体を持って、十字架を背負ったわけです。



 4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

ヨハネは、十字架のふもとにまで行った唯一の弟子です。
ペテロはイエスを知らないと三度否定し、他の弟子たちはとっくに姿をくらましている中、一見すれば、最も忠実な弟子かのように見えると思います。
でも、彼は、この時、「イエスの弟子」としてではなく、「大祭司の知り合い」として、その場にいたんです。そのことは、ヨハネの福音書で告白されています。ユダは公然と裏切り、ペテロは公然と否定しました。でも、ヨハネは、影で裏切り、ひそかに否定していたんです。


私たちが神を愛したのではない 

…実は、ここに、ヨハネ自身の完膚なき自己否定、罪の告白もあるわけです。

しかし、けれども、にもかかわらず、イエス・キリストは愛してくださった。

神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛がある。


 4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。


…とはいっても、ところが、ところがなんですよ。

この愛は、愛は愛でも、キリストの愛、無限大なんですよね。
神が、どんな自分を、どれほどまでに愛してくださっているか、知れば知るほど、決して、自分にはできないことも見えてくると思います。
であるがゆえの「愛し合うべき」、「べき」の愛なんです。


4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

愛という点では、私たちは、まだまだ成長過程だと思います。今、できていなくてもいいんです。むしろ、できないからこそ、私たちには、赦しが必要で、十字架が必要なわけですよね。
ただ、その「愛すべき」、愛するという方向に向かっているかどうか、ここが大切なんです。


もしも、何か心が責められることがあるなら、やっぱり十字架のもとに行き、そこで、しっかり神の赦し、神の愛を受け取ることなんですよね。

1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

「光の中を歩む」というと、どこか聖人君主のように、清く正しく美しく歩んでいるかのようにと思ってしまうかもしれませんが、でも、そうじゃないんです。もし私たちが、本当に神様の光の中を歩んでいるなら、罪も、穢れも、ついでにシミも、そばかすも、よう見えるはずなんですよ。
実は、それが正真正銘、「ありのままの私」なんですよね。

しかし、そんな神様の光の中を歩んでいるなら、私たちは父なる神と、御子イエス・キリストとの交わりを保ち、私たちの行ない、努力、訓練によるのではなく、ただ御子イエスの血が、すべての罪から私たちを清めてくださるというんです。


「罪」というと、なんだか悪いことのイメージが強いと思うんですが、元の言葉の意味は、「的外れ」。野球のストライク、ボールで言えば、ボールです。愛から的をはずす、要するに失敗です。これが聖書の言う「罪」なんですね。たとえ的はわかっていても、的をはずしてしまうことはありうるわけですよね。

1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

ともありますが、「罪」や「失敗」のない人なんて、当然、いないわけです。


しかし、そんな失敗を隠すのではなく、本当のありのままの自分のまま、神様の前に「罪」を認め、そんな自分をも愛する神の愛を知って、再び愛に向かって生きる。実に、私たちの信仰生活とは、実に、この繰り返しなんだと思います。
ですが、この繰り返しは、決して、ただの繰り返しではなく、そこに学ぶべきことがあり、成長があり、神の愛が渦となって、螺旋階段のように、少しずつ登っているわけです。


ところが、この繰り返しが、ただの繰り返しのように感じて、クリスチャンとしてこれでいいんだろうかとか、このままでは駄目だとか、何かが足らないかのように思えてしまうことがあるのかもしれません。
そんな心の隙に、すーっと異端の罠は忍び込んでくるように思います。


私の周りでも、知らず知らずのうちにカルト的になっていた教会に巻き込まれて、何かおかしいと思いながらもわからず、様々な傷を負ったり、心身ともに疲れ果ててしまったりした友人、知人がいます。決して、私たちに関係ない話ではないんです。
自分は大丈夫かもしれません。でも、家族が、友達が、知人が、そうした罠にはまってしまうことはありうるわけですよね。


まずひとつ多いのは、信仰だけでは不十分、こうでなくてはならない…というような、律法主義的な考え方だと思います。その罠にはまった代表例が、ガラテヤの教会です。
この考え方、発想は、実に、私たちに入り込みやすいのかもしれません。なぜなら、私たちの社会自体、法律や規則で行動を規制したり、評価したりすることが多いからです。


今、うちの会社でも、新人ちゃんを入れて、教育しているんですが、旅行業としてやるべきことは教えられたとしても、個々のお客様にどう対応していくかは、マニュアルで教えられない部分があるんですよね。
新人ちゃんも、失敗したくないものだから、これでいいですか、あれでいいですか…と聞いてはくるんですが、教えるほうも大変です。お客様にどうすれば喜んでもらえるか…、それはお客様によって、みな違うわけです。実際に、そのお客様の要望を聞きながら、自分で考え、悩み、時には失敗もしながら、いろんな経験していくことだと思うんですよね。


愛するということも同じ。決して、こうすれば正しいということもないし、自己満足では終わらないんです。命令やマニュアルで決めてしまえば、ある意味、正しいことはできるかもしれないし、失敗することも、責任を負うこともないかもしれないですが、「愛する」ということは、そういうものではないですよね。

愛は、自らの意思と責任で行うからこそ、愛になるわけです。だからこそ、私たちには、愛だけではなく、キリストにある自由も与えられているわけですよね。この愛と自由はセットです。自由というとね、なんだかいいなあと思うかもしれないんですが、そこには、ちゃんと自己の判断と責任が伴うわけです。でも、それは、私たちが自ら愛するため、その愛する心を育てていくために、この自由というものが欠かせない、大切な要素なんです。


そして、もう一つ陥りやすいう誤りが、霊的な成長、霊的な力を求めるあまり、違う霊、違うスピリット、違う発想まで取り込んでしまうことです。

4:2「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」

聖霊は、あれやこれや自己主張をするのではなく、間違いなく、イエス・キリストを指し示し、イエスこそが、キリスト・救い主だと告白、証言しているわけですよね。

ただ、気をつけてほしいのは、偽預言者たちも、「キリスト」の名前を使うということです。残念ながら、私は偽者ですなんて自己紹介してくれないわけですよ。
しかし、聖霊は、ただ名前だけ「キリスト」ではなく、あるいは概念や知識、霊的なほにゃららではなく、人となってこられたイエス・キリスト、すなわち歴史上の事実として、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった、受肉、十字架、復活のキリストご自身を指し示してくれているわけです。


事実として、私たちを愛し、その肉体をもって、十字架までをも背負われたイエス・キリスト、ここにこそ愛があります。
このイエス・キリストを信じる信仰によって救われる、これ以上も以下もありません。


ところが、偽預言者というのは、それでは足りないかのように語ってくるわけですよね。
十字架だけでは不十分、信仰だけでは不十分、実はこれが必要、実はこれが隠された奥義なんですよ〜ってな感じで、忍び寄ってくるんです。

ですので、絶えず、仮に私が言うことであってもですよ、「本当にイエス様は、そんなこと言うだろうか」「イエス様だったら、どう考えるだろうか」どこかで吟味する、この視点を、私たち一人一人が持っておく必要があるわけです。

ある意味、悪魔だって、聖書の言葉を使うんですよね。たとえ、どんなに聖書から語られていても、福音の原点、イエス・キリストから外れた聖書の解釈は、神の言葉ではないわけです。

ヨハネも、2:24では、このように忠告しています。

「あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。」


ヨハネは、その「初めから聞いたこと」、すなわち、キリストの十字架であり、神の愛であり、そして、私たちが愛し合うということ、それらをこの手紙の中で、1章の初めから、「初めからあったもの、私たちの聞いたこと」として、繰り返し、繰り返し、しつこいくらいに語っているわけです。ぜひ、一度、その視点で、この手紙全体を読んでみてもらえれば、より理解も深まると思います。

45歳で今も現役でがんばっている、有名なサッカー選手の三浦和良、ロス疑惑の三浦和義ではないですよ。サッカー選手の方の三浦和良がこんなことを言っています。

学ばない者は人のせいにする。
学びつつある者は自分のせいにする。
学ぶことを知っている者は誰のせいにもしない。
僕は学ぶ者でいたい。

チームが負けた時、何か失敗したとき、謙虚に自分の未熟さを認めて、そこで何か得られるものはないかと学ぶことを知っている、そういう人は、誰のせいにもしないと言うわけですよね。
彼は、それこそ日本を代表をする、一時は世界のトップレベルでプレーしていた選手です。正直、プライドや誇りもあると思うんです。でも、そんな彼が、「僕は学ぶ者でいたい。」というわけです。

昔は、かなり負けん気の強い選手だったと思うんですけどね。実際には、彼にも、人のせいにしてしまうこともあれば、自分を責めてしまうこともあるはずなんです。でも、そんな彼も今、45歳。プロのサッカー選手としては、肉体的には衰え、とっくに引退してもおかしくない年齢です。でも、「僕は学ぶ者でいたい。」今でも、現役で続けています。

私たちは、どうでしょうか。。。

私たちも、自分自身を振り返った時、まだまだ未熟な不完全なものだと思います。


学ばない者は人のせいにする。
学びつつある者は自分のせいにする。
学ぶことを知っている者は誰のせいにもしない。
僕は学ぶ者でいたい。

私も、若いときには、かなり人のせいにし、最近は、自分のせいにしてしまうことも多くなったかな…と言う気がするんですが、やはり、学ぶ者でありたいですよね。
私たちは、この生涯、最後まで、現役のクリスチャンなんです。


神がどれほどまでに愛しているかを知り、そして、自らが愛することを学ぶ。

聖書も、イエス・キリストを中心に、この視点で読んでいくときに、いろんな気づき…、
様々なアイデアや知恵、時に、励ましや慰めまで、与えてくれるはずです。


時に失敗することはあると思います。たまには、疲れて、立ち止まってしまうこともあっていいと思います。人を愛せなくなること、赦せなくなること、罪を犯してしまうこともあるかもしれません。
しかし、私たちがどんなに不完全であったとしても、神の愛は、完全です。


ことあるごとに、十字架のもとで、どんな自分が、どれほどまでに愛されているか…、
キリストの愛の深さ、広さ、高さを繰り返し、繰り返し、味わいながら、この福音の螺旋階段、神の愛の渦の中を1歩1歩、登っていくものでありたいですよね。
その行き着く先は、間違いなく、天の御国へと繋がっているのです。



「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。
 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」


 

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2012年08月05日

「ハートに金メダル」マタイ25:14〜30(タラントのたとえ話)

(2012.8.5 茅ヶ崎シオンキリスト教会)

みなさん、おはようございます。

毎年8月になりますと、悟先生の代打として登場する、自称8月の男、竹下 力です。
「8月の男」というと、年一回の登板でも何だかすごそうじゃないですか。ただの男なんですけどね。
「8月の男」勝手に気に入っているんですが、おそらく来年も8月には登場しますので、ぜひ、よろしくお願いいたします。


さて、今、ロンドンオリンピックが行われていますが、メダルを取るって大変なことですよね。
思うんですが、水泳とか、体操だとか、なかなかメダルが取りにくい競技というのは、たとえ銀や銅でも、メダルが取れれば、大喜びできると思うんですよ。

ところが、柔道…、私も見かけによらず、かつて柔道をやっていたこともありまして、柔道を、よく見るんですが、金が当たり前、金メダル以外はメダルじゃないなんて言われたりもして、銀や銅だとなんだか残念…のような、なんだか緊迫感と悲壮感に漂っているんですよね。


オリンピックに出られることですら、本来、すごいことだと思うんですよ。ところがオリンピックで試合できる喜びよりも、金へのプレッシャーでなんだか選手たちも萎縮しているような。むしろ金にこだわらず、チャレンジ精神で、日本の柔道で、世界のJUDOに挑んでもらえたらなと思うんですけどね。

さて、今日は、そんなロンドンオリンピックから、インスピレーションというか、かこつけて「ハートに金メダル」なんてタイトルをつけてみたんですが、神様も私たち一人一人に、金メダルを用意してくれています。

えっ、私にですか…?、何に対してですか…?と思うかもしれませんが、皆さん、一人一人に、この8月の男にですら、ちゃんと金メダルを用意してくれているんです。
果たして、どんなメダルなんでしょうか?

今日は、それを「タラントのたとえ話」から見ていこうと思っているんですが…、その前に、このたとえ話、皆さんは、どのように受け止めているでしょうか。

話の内容をざっといいますと、

ある金持ちの主人が、遠くへ行くというんで、僕(しもべ)たちに財産を託していくんですよね。
能力に応じて、ひとりには5タラント、ひとりに2タラント、そして、もうひとりには1タラントを預けていくわけです。

5タラント預けた僕は、その5タラントを元手に、さらに5タラント儲けるわけですね。
2タラント預かった僕も、やっぱり2タラント儲けます。
帰ってきたときに、主人は、喜ぶわけですな…。「よくやった、忠実な僕じゃ。」

ところが、1タラントの男は、地面に埋めてしまうわけですよ。それを知った主人は、その1タラントの男を放り出してしまうお話です。


どう思います?

この1タラントしかもらえんと、この男が、なんだか、かわいそうにも思えたりするわけですが、
いっくら信じる信仰による救いといっても、何もしなければ神様に裁かれる…、
やっぱり神様のために、ある程度は何かをしないと救いも取り消されてしまうんじゃなかろうか…、
そんなふうにも、読めると思います。


しかし、福音の大原則は、行ないによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰による救い、ただこれ一本です。
聖書全体から見れば、そうです。

でも、このタラントのたとえ話、何もしないで怠けていれば、神様に裁かれる…そんなふうに誤解されていることも多いんじゃないか…と思うのです。


ですが、実は、この1タラントの男が、1タラントを地面に埋めておいたことが問題ではないんです。
この男が、お金を稼ぐ能力に乏しかったのでもありません。この男の主人に対する理解が圧倒的におかしいんです。


よく教会で「タラント」 といえば 「能力」、教会用語でいえば神様から与えられた「賜物」として使われることがあると思います。
確かに英語でも「タレント」といえば、「才能」とか「有能」という意味になりますし、日本で「タレント」といえば、芸能人のことを指したりもしますよね。それらもすべて、この「タラントのたとえ話」から派生してきた意味です。


なんですが、この当時、この「タラント」という言葉に、「能力」という意味はないんです。
これが大きな誤解の元かもしれません。
「タラント」とは、元々重さを量る「はかり」のことで、そこから、金の重さ、つまり金額をあらわすようになりました。
ですので、この時、イエス様が語られている「タラント」も「能力」を意味しているわけではなく、単純に金の量、金額です。

ですので、今日は一旦「タラント」=「能力」「賜物」という公式ははずしてみてもらいたいんです。


さて、その1タラントは、新改訳聖書の注釈では、6000デナリになります。
1デナリは、当時、労働者の一日分の給料に相当します。
仮に1日の日当を5000円と見積もったとしても、およそ3千万円という金額になります。


ですから、15節を読み替えますと、

「彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには1億五千万円(5タラント)、ひとりには6千万円(2タラント)、もうひとりには3000万円(1タラント)を渡し、それから旅に出かけた。」


なんだか、途端に、すごい話に変わったような気がしませんか。
話を聞いている弟子たちにしてみても、手にしたことも、見たこともないお金だったと思います。

確かに、5タラントや2タラントに比べれば、1タラントしか与えられていないように思うかもしれませんが、実は3000万円、1タラントも与えられているんですね。


もし会社で、社長が留守にする間、3000万円の決済を一任するとしたら、かなりの実力と実績がある人ではないでしょうか。誰でもいいという額ではありません。
どうでしょうか。
もし皆さん、自分が社長だとして、留守の間、3000万円任せられる部下という人って、どういう人でしょう。
たとえ、どんなに能力があっても、若手の新人に任せられますか?
絶対にできないですよね。決して、誰でもいいというわけではないはずです。


この1タラントの男は、決して能力に乏しい男ではなく、3000万円の資金を管理、運用できるだけの能力もあったし、十分な実績もありました。
だからこそ、この主人は、この男に1タラント、3000万円を託して安心、彼を信頼して預けているわけです。


ところが、主人が戻ってくると、この男は、こういうのです。

25:24 『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。』


いったい、どういうことなんでしょう?
なんで、この男が、そんなことをいうのか、全くわからない…そういう話なんです。

3000万円あれば普通の会社なら十分に立ちます。
私も普段は旅行会社で働いているんですが、無担保で3000万円の融資が受けられるとしたら、こんなありがたい話はないですよ。
主人は、決して蒔いていないわけではないのです。


この1タラントの男は、単に怠けていたわけではありません。
だからといって、持ち逃げしたり、使い込んだり、悪いことはしていない、確かに1タラントを返すのです。

ですが、面と向かって「あなたは散らさない所から集めるひどい方だ」と言い放つわけです。
もし、この主人が本当に「ひどい方」で、この男が主人を恐れていたら、そんなことも言えないはずですよね。
主人が「こわくて」、地面に埋めたというのは、嘘なんです。

むしろ積極的な意思で、この「ひどい」主人のために、あえてリスクや苦労を背負って、一文たりとも稼ごうなんて思わない。
あなたが預かれといったから、預かっただけ。これ以上も、これ以下もありません、これがあなたものです。
私は言われたように預かりました。そのままお返しします。

主人の信頼や愛情を全く理解しようとはせず、ある種の敵意すらあるのです。

この主人は、決して、1タラントで何の利益が得られなかったことで、腹を立てたわけではないんです。
地面に埋めて置いたことが気に入らなかったわけでもありません。

あなたは、わたしのことをそのように思っていたのか…、この男の思いにショックを受けているのです。


この男にしてみれば、1タラントでも、5タラントでも変わりはありません。
金でも銀でも銅でも、石ころと同じ。地面の中に埋めてしまうのです。


25:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。

当時、イスラエルの宗教家たちも、確かに律法は守り、神様のことも信じていました。

しかし、彼らは、律法を守らなければ神からは祝福を受けられない、律法守らなければ神から裁かれる…、
極端な話、とにかく朝から晩まで、律法に反しないような1日のスケジュールを考えて、そのとおりに行動をしていたんです。
そうしなければ、神様にやられる、祝福を失う、まさに、彼らにとって神様は、まるで「蒔かない所から刈り取るひどい方」かのようでしたし、そう教えていたんです。
だから、律法を守らない民を裁いたり、さげすんだりもしていたんですよね。

しかし、彼らも、決して神様から愛されていなかったわけではありません。

…わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している

旧約聖書のイザヤ書にある有名な言葉ですが、これは、まずイスラエルに、しかも名指しで語られている言葉です。

しかし、彼らは、神の愛が理解できず、イエス・キリストを地面に埋めるどころじゃない、十字架に釘付けにしようとしてしまうのです。

時は、まさに、そんな十字架が迫っていました…。

 本当に神は、蒔かない所から刈り取るようなひどいお方だと思いますか…。
 それは、大いなる誤解です。
 どうか、父の愛を受け取ってください…。
 わたしは、これから十字架を背負います。これが神の愛です。
 どうか受け取ってください。
 そうしなければ、与えられている愛まで、なくなってしまう、失っていくのです。


表現は厳しく語られていますが、これがイエス様の心です。

私たちは、能力の点で言えば、1タラント以下かもしれません。
誰か、私に無担保で3000万円融資してくれる人はいるでしょうか…。
誰もいません。
300円か、3000円か、せいぜい、がんばって3万円くらいだと思います。私なんか、0.001タラントの男ですよ。


ですが、これは、たとえ話。
商売やスポーツの世界では、能力や結果で評価されるかもしれませんが、福音の世界ではそうではありません。
信仰に応じて、誰にでも与えられる、神様の愛を受けとって生きる世界です。


神さまは、私たちにどれほどの「タラント」を与えてくれているんでしょうか。
初めに言いましたが、「タラント」は、「能力」ではありません。元々は金額です。
イエス・キリストの命を、もし金額に換算するとしたら、いくらになるんでしょうか。。。

1タラントでしょうか。2タラントでしょうか。5タラントでしょうか…

実に、私たちには、ものすごい「タラント」が注がれているんですよね。


私たちにとって、愛された喜びこそが、すべての原動力です。

ですが、その神様の愛に比べたら、私たちが神様のためにできる一つ一つは、実に小さなことかもしれません。
そんな自分に勝手に×をつけてみたり、これじゃあ駄目だと否定してしまったりすることはないでしょうか。。。

ある五歳の男の子が、お父さんの誕生日に、お箸をプレゼントしました。

ところが、それは料理で使う、長いお菜ばしだったんですね。
お父さんもそのお菜ばしをもらって、これお父さんになの?お母さんにじゃないの?
たまには、料理の一つくらいしなさい…ってことなのかななんて、
最初は戸惑ったらしいんですが、話を聞いてみるとですね、
はじめ、お店に行ったとき、その子が持っているおこずかいで買えるようなお箸がなかったらしいんですね。

それでも、その男の子は、お父さんにお箸をプレゼントしたくて、いろいろお店を探していると、他のよりも長くて立派なお箸が眼に留まったんです。
しかも、自分のおこずかいでも買える。それが、お菜ばしだったんですよね。
その子には、それがお菜ばしだなんてわかりませんから、もう喜んで、お菜はしを買ってきたわけです。


そのお菜ばし。それは、五歳の男の子の愛だと思います。
愛というのは、形ではありません。立派なことでも、大きなことでなくてもいいんですね。
能力でもない、成果でもない、ハートです。


一方、五歳の息子が、自分のためにお箸をプレゼントしようとして買ってきたお菜ばしだとわかって、嫌がるお父さんはいません。
その日の夕飯は、がんばって、その長いお箸で食べたそうです。
これはお父さんの愛だと思います。
このお父さん、私の恩師で巡回伝道者の福沢満雄先生なんですが、今でも、そのお菜ばしを取っておいてあるそうです。


神様の眼から見たとき、私達のしていることも、とんちんかん。抜けているところ、足りないところも、大いにあると思うんですね。
しかし、それを愛として、受け止めてくれるのも、神様の愛だと思います。

神様は、決して「蒔かない所から刈り取るひどい方」ではありません。
神は、その一人子イエス・キリストを与えたほどにこの世を愛された…愛なる神です。


私たちがその愛に答えようとするとき、…能力や成果は関係ありません。

小さな者が、小さな者にする、小さなことにも眼を留めて、
そのハートを評価して、『よくやった。良い忠実なしもべだ。』そう言って喜んでくださる。


私たちに、最高のタラントを与え、私たちのハートに最高の金メダルを用意してくださっているのではないでしょうか。



…よくやった。良い忠実なしもべだ。
  あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。
  主人の喜びをともに喜んでくれ。

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「何を学び、何を伝えていくのか」マタイ28:16〜20

みなさん、おはようございます。

先日、私の友人で、神学校で説教学の講師をしている牧師と話す機会があったんですが、説教で大切なのは何だ…という話題になりました。
…といっても、まじめな説教学の講義ではなく、友人との話なんで、半分、冗談なんですが、説教で大切なことって、皆さんは何だと思うでしょうか。

私とその友人との間では、お互い開口一番、そりゃあ、まず笑いでつかむことだろう…ということで一致したんですが、いや、実際、笑いって大切なんですよね。半分冗談なんですが、半分は本当なんです。

これは別に説教には限った話ではなく、こうして人前で話すときにはすべて言えることなんですが、
人は笑うことで緊張が解けて、相手の話に耳を傾ける準備ができるらしいんです。


「牧師殺すに刃物はいらぬ、あくびの三度もすればいい。」なんていった人もいましたが、
もう笑いさえ取れれば、その説教は80%成功したようなもの。
あとは、基本、聖書の話じゃないですか。でも、実は、毎回、その笑いのネタを考えるのが大変なんです。


今、テレビでロンドンオリンピック、やってますよね。
昨日も、説教の準備の間に見たりするんですが、なでしこが勝つか負けるかよりも、大体、そういう時は、なんかネタはないか…と思いながら、見てたりもするんですよ。


だから、芸人さんって、すごいな…と思うんですよね。特に若い芸人さんなんて、つまらないネタやりながら、必死で、がんばっていたりするじゃないですか。そういう姿を見ると、わしもキリストの芸人としてがんばらにゃあかん…と思ってみたりもするんです。

さて、今日は、「何を学び、何を伝えていくのか」、宣教命令として有名な箇所を取り上げているんですが、
もちろん、いかに笑いを取るか…ではありません。


宣教命令…、みなさんもここから説教を聞く機会があると思うんですが、どんなメッセージが多いでしょうか。おそらく宣教しましょう!と語られることが多いのかなという気がします。


ですが、宣教を考える前に、私たちが聖書やイエス様から、いったい何を学び、何を伝えていくのか…、私たち自身が確かに確認しておくってことが、実は、すごく大事なように思います。

現実に、数々の教団、教派に別れ、それぞれに特徴や主張があったりもするわけです。
それはそれで、もちろん何が正しいのか探求している結果ですので、決して否定もできないのですが、一方で、細かい部分で、それぞれのこだわりを主張しあっていては、私たちであっても、何が正しくて、どうすればいいのか、混乱もしてしまうわけですよね。

そんな傍らで、本当におかしな聖書解釈によって、カルト化してしまう教会も存在してしまうんです。

クリスチャン以外の人たちからしたら、どうでしょう。。。
「これだから、宗教は…」って話にもなるわけですよね。実際、そうなんですよ。
つまり、そのつもりはなくても、周りには違うものが伝わっているわけです。

ですが、イエス様が何を教え、何を伝えてほしいのか、これが本当に大切なことですよね。それがイコール、私たちが何を学び、何を伝えていくのかでもあるべきです。
今日は、この宣教命令を足がかりに、変な話、実際にキリスト教会で語られている、おかしな聖書解釈もご紹介しながら、本当に伝えるべき大切なことは何なのかを、ご一緒に考えることができればなと思います。

28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。


聖書って、本当に正直だと思うんですよね。
十一人の弟子たちが、復活の主に会ったときに、「ある者は疑った」というんです。
「疑う」といえば、トマスが有名ですが、トマスだけでもなかったようです。

弟子たちといえども、復活の事実を目の前にした時に、にわかに信じがたい…これも真実なことですよね。ですが、この疑うこと、疑う者がいるというのは、この事実が本当なのか、何が大切なのか、真実を見極める上では、非常に大切なことでもあるように思うんです。


疑うというと、信仰と相反するように思うかもしれませんが、もし疑うことがなかったら、それはマインドコントロールにもなってしまうわけです。
これは、みなさんにも知っておいてもらいたいんですよね。マインドコントロールというのは、まず、この疑うということを禁じていくんです。

「正当」とされるキリスト教会の内部にでもですよ、マインドコントロール的な教えが説かれて、カルト化してしまっていることが実際にあるんです。


たとえばですね…

疑うのは、信仰がない証拠、悪魔に惑わされている、救われているとはいえない…

そうやって疑問の声を、シャットアウトさせたりもするわけです。


これ、実際にあった例ですよ。私に言わせれば、これこそ、サタンの惑わしです。
いつの間にか、イエス様ではなく、悪魔だとか、サタンの名で縛られていくんですね…、残念なことに、これが正当とされるキリスト教会の中でも起こりうる、マインドコントロールの一つのパターンなんです。もちろん間違いです。


ですが、もし、こうした方法で、宣教が進められたら、どうでしょう?


宣教しないのは、信仰がない証拠、悪魔に惑わされている、救われているとはいえない…

どんなに福音が語られて、人が集まったとしても、その中身、実態は全く異質なものになってしまうわけです。

聖書にも確かに、悪魔や悪霊が出てきます。サタンの惑わしもあるかもしれません。
ですが、私たちには、イエス・キリストへの信仰によって、聖霊が与えられているわけです。聖霊は、悪魔やサタンより、弱いんでしょうか。いいえ、何億万倍も強いんです。
その聖霊は、私たちのうちにあって、絶えず絶えず、イエス・キリストを指し示してくれています。ここが、ポイントです。
ですから、サタンにビビることではなく、聖霊の声に耳を傾ける、すなわち、イエス様だったら何て言うだろう、イエス様に聞く、それが大切なんですよね。


ところがこうして「聖霊」を持ち出すと、今度は、聖霊によって導かれた教会や指導者に間違いがない…なんて話にもなるんです。


自分であれ他者であれ、教会は人の集まり、私たちはあくまで人間です。
「聖霊が導いている教会や指導者に間違いがない」ということは、絶対にありません。
人間である以上、どんな教会でも指導者でも、時には間違いや失敗もあります。


私たちも、ひとつ注意したいのは、自分自身の思い込み、先入観かもしれません。
その意見や考えが、どんなに正しいと思ってみても、どこかで疑いを持ち、広い視野でよく吟味してみる。これは私たちにも、一つ必要な姿勢かもしれませんね。


疑うことを禁じるのは、バレてはいけない何かがあるからなんでしょう。もし本当に本物だったら、どんなに疑っても本物なんです。

ところが、実際に間違いが明かされたとしてもですよ。
ローマ13章には「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。…権威はすべて、神によって立てられたもの。…そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」なんて言葉が書かれています。
ここだけを取り出して、「だから、牧師やリーダーには逆らってはいけない。たとえ間違っていても従うべき。」なんてことが、実際に、まことしやかに語られていたことがあります。

これ本当に、ちらほらと語られていたりするんですよ。これも、もちろん、全くの間違った解釈です。


でも、聖書には、確かに、そう書いてあったりもするんですよね。
下手に逆らえば、もしかしたら、さばきをまねきくかもしれないじゃないですか。
明確な根拠がないと、ちょっと怖くもなりますよね。
こうして聖書や神の「権威」を利用して、間違っていることにも従うことが正しいことになってしまう…まさにマインドコントロールなんです。


しかし、このローマ書でいう「上に立つ権威」というのは国家権力であって、一般論です。
文脈を追えば、すぐわかります。イエス様が王だから、皇帝には従わないというのではなく、払うべき税金を払い、法律を守りましょうという話なんです。
ですが、仮に、もしその国家が、信仰を禁じたとするならば、それにも従うべきなんでしょうか。。。
違いますよね。
そうであっても、私たちはテロリストではない、牢に入れと言うのなら、甘んじてそれを受ける、義をもって悪に勝つ…これが主旨です。

ところが何度も、繰り返し、少しずつ、恐怖や脅しをかけながら、「疑う」思考を止めさせ、聖書や神の権威を借りて従わせていく、これがマインドコントロールの手口であるわけです。

実に、これらは特殊なカルトではない、どれもキリスト教会の中で起きた実例なんです。


ですので、聖書は一部を抜き出すのではなく、必ず文脈から、もっと言えば、聖書全体を見て解釈する必要がありますし、イエス様だったら何て言うだろう、イエス様だったらどう考えるだろう…、この視点を忘れないようにしたいものです。


「しかし、ある者は疑った。」

実に、ここにこそ、聖書の真実の眼があります。

イエス様も、まだ疑いの眼で見ている弟子たちを、決して、拒んではいないんです。


28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた…。

半分疑いの眼で見ている弟子たちに、イエス様のほうから、近づいてこられたんですよね。


28:18 …「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」

いっさいの権威あるお方は、特定の誰かでも、私たちでもなく、イエス・キリストです。
このお方にこそ、権威があります。

でも、なぜイエス様は、ここで「権威」ということを持ち出したのでしょう。
イエス様の生涯を見たときに、上に立って権威を振うのではなく、しもべとなって、下に仕えたお方ですよね。
そのお方が、なぜここでは突然「権威」を主張したのか…、ちょっと不思議ではありませんか?
そこには、何か訳もあるような気がしますね。


それは、当時、ユダヤ人的な常識として、ユダヤ人以外が救われるなんて、天地がひっくり返っても、考えられない話だったんです。
このときの弟子たちも同じ。彼らもまたイスラエルの独立、復興を願っていましたし、それがユダヤ人にとっての救いでした。
この世界宣教命令があるにもかかわらず、使徒の10〜12章では、ペテロが異邦人にバプテスマを授けたというので、エルサレム教会では大論争にもなっているわけです。
そのくらいユダヤ人にとっては、異邦人が救われるというのは衝撃的な出来事だったんです。


28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

なんの権威があって、そのようなことが言えるのか?

よくパリサイ人たちが言っていたことですよね。「何の権威があって、罪を赦すのか」
イエス・キリストの権威によってです。


 ユダヤ人じゃないから駄目だとは言わず、割礼がないから駄目だといわず、
 ギリシア人であっても、日本人であっても、
 国境、国籍、国語、文化を超えて、あらゆる人々をわたしの弟子としてください。
 認めてください。加えてください。

これが宣教命令の中心、イエス様のこころです。


その方法として、二つ。

 28:19 …父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
 28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。…


まず、一つ目のバプテスマ。
時に、水に浸けるのか、垂らすのか、その方法にも論議があったりますが、どういったスタイルにしても、この時、イエス様は、そういったバプテスマという一つの形、儀式そのものを、大切に守って欲しかったんでしょうか…。

それも、ちょっと違うような気もしますよね。

実際、イエス様が、直接、人々を救っていった時には、バプテスマの有無は関係なかったし、求めていないんですよ。

「あなたの信仰が、あなたを救った。だから、安心していきなさい。」

救いを求めてきた人たちに、イエス様自身は、水のバプテスマの有無は問わなかったし、必要としなかったんです。
あくまで信仰のみです。では、なぜ、ここでバプテスマを授けるように命じたんでしょう。

それは、イエス様が必要としたのではなく、私たち、人間に必要だったんだと思います。

クリスチャンにとってのバプテスマの意味は、キリストの死にあずかるバプテスマ、つまり、キリストの十字架の贖いによって、罪が赦され、復活のいのち、永遠のいのちにあずかることです。
これは、バプテスマの意味であるより前に、福音そのもの、信仰そのものですよね。
ところが、その信仰も、言葉も、救いも、目には見えません。
またイエス様自身も天に昇られた後は、目には見えなくなるわけです。
すると、どこか救いの事実も、曖昧にもなってしまうんだと思います。それを歴史の事実として、目に見える形で、公に表現できるのが、バプテスマです。


授ける側からすれば、十字架と復活、イエス・キリストの権威によって、この人も救われる。あなたの信仰のゆえに、イエス・キリストが、あなたを救う。その公の宣言としてのバプテスマとなります。

反対に、授かる側からすれば、十字架と復活のイエス・キリストを信じて、この時、間違いなく、私は救われたという公の証にもなるわけです。


ちなみに聖餐式も意味は同じですよね。キリストの死を告げしらせるもの。
私たちの信仰告白も、バプテスマや聖餐も、表現方法がちがうだけで、どれも意味は同じ。
当然伝えるべきメッセージも一緒、キリストを信じる信仰によって救われる、福音です。


28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。

イエス様も、実に、いろんなことを教えているわけですが、聖書全体を指して教えた最も大切な戒めがあります。
なんでしょうか…。
それが、「愛する」ことです。

マタイの福音書22:37〜40
  「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

  これがたいせつな第一の戒めです。
  『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
 

さらに、ヨハネの福音書によれば、最後の晩餐で「新しい戒め」として、教えられたんですよね。

ヨハネ13:34
 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。
 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。


なぜ、イエス様は、これを「新しい戒め」として教えられたのでしょうか。。。
この戒めは、旧約律法の時代から、古くからある戒めなんですよね。


私たちは「愛する」という戒め自体は忘れなかったとしても、書類が積み重なるように、あれやこれやといろんなことが舞い込んで来たときに、いつの間にか下のほうに隠れてしまうことがあるように思うんですよね。


宣教命令も、実は、そんな上に積み重なってしまう、命令の一つかもしれません。
時に「世界大宣教命令」なんて「大」までつけられて、教会のスローガンにまで掲げられ、宣教第一、どれだけ伝道しているか、数で評価されてしまうこともあるように思います。
確かに宣教命令も大切なんですよ。でも、一部です。もっとも大切な戒めは、これです。


 …あなたがたは互いに愛し合いなさい。

この戒めを、絶えず、新しく、一番上において置け…ってことだ思うのです。

私たちは、ついつい聖書のある一部だけをとりあげて、正しいか、間違っているかという論議をしてみたり、人を評価したりしやすい傾向があるように思います。
でも、そういった聖書のごく一部を大切に守ったからと言って、それで他よりも正しくなる、優れている、特別に神様に評価されるということはありません。
これこそが行ないによる義、行ないによって正しいと認められようとすること、パウロがガラテヤ書で全面否定していることです。
もし行ないによって義と認められるのなら、キリストの死は無意味である、無駄死にである、実に、全く真逆のことを伝えてしまうことにもなるわけですよね。


ただ、信じる信仰によって救われる。
キリスト・イエスにあっては、愛をもって働く信仰こそ大事なんです。


では、私達に、どれほどの愛があるのか…というとですね。。。。
なんと、まあ…、それほどには、なかったりするわけですよね。

ヨハネの福音書では「わたし(イエス様)が愛したように…」といわれているんですよね。
汝の敵を愛せよ、迫害する者のために祈れ。友のために、命を捨てるほどにです。
いやいや、私たちにはどうして、なかなかできることではありません。


しかも、愛に方程式ってないんですよね。
こうすれば正解ということも、十分ということもないんです。
人それぞれが、もてるもの、得意不得意、やり方も違うでしょうし、相手によっても、状況によっても、ケースバイケースです。


私たちには、ある意味、ある程度の「正しい」ことはできるのかもしれません。
でも、「愛する」というのは心が伴うものじゃないですか。
自分自身を振り返った時に、正しさで人を責めてみたり、感情的に無理だったり、「愛する」ということになると、誤魔化しがきかないんですよね。
いいんですよ。できないんです。神様の前では、自分に、正直でいいんですよ。

私たちも、「愛する」という点では、まだまだ発展途上、生涯、一求道者といえるかもしれないですよね。


でも、ここが大切なんですが、そんな足らない、不完全な者を、キリストは愛してくださっているんです。
十字架の命をかけて…。

このキリストに愛された喜びこそが、宣教の力、教会の力、すべての原動力になります。
キリストがどれほどまでに、愛してくださっているか、そして、いかにして私たちが愛していくのか、これがまず弟子のとして最も学ぶべきこと、そして伝えるべきこと、実は、それが聖書の中心なんですよね。


聖書は、細かい枝葉の違いで、正しいか、間違っているかを論じるためのものではなく、私たちが信仰によって、聖書から、神の愛を汲み取り、愛に生きようとする時に、いろんな知恵や力、時には慰めや励ましを与え、私たちの人生のいたるところで、豊かな実を結んでくれる、それが神の言葉、聖書なのではないでしょうか。

 28:20 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

感謝なことに、私たちがイエス様に着いていかないと置いていかれるわけではないんです。
イエス様が、わたしたちと、いつでも、ともにいてくださるんです。これは約束です。


すべてのクリスチャンが、直接、宣教や伝道の働きをするのかというと、そうではありません。
宣教命令が一番大事な命令かというと違います。命令の一部です。

中には宣教の働きをする人もいれば、その働きをサポートする人もいます。
人の悩みを聞く人もいれば、その場を盛り上げて楽しませてくれる人もいる。
人それぞれ、個性や能力に応じて、いろいろな愛し方、いろんな弟子がいるわけです。

そういうわけで、私達は、愛において、お互いにまだまだ不完全な者だと思います。


しかし、この小さな者をも、キリストが愛してくださるというので、
自分らしく、自分なりに、自分にできることを持って、
神様を愛し、隣人を愛し、自分自身を愛する。この三つの愛に生きる。

私たちが愛に生きるとき、キリストの愛も、おのずと広がっていくのではないでしょうか。

お互い不完全な者同士、愛を学び、愛を伝え、愛に生きる群れとして、成長していきたいものですよね。


…ユダヤから、世界へ。
 外国人だから駄目と言わず、律法を守っていないから駄目だと言わず、
 文化が違うから駄目だと言わず、わたしの弟子として受け入れて、バプテスマを授けてください。
 どうか、国境、国籍、文化を超えて、あなたがたは、愛し合ってください…。


これが、宣教命令の心、イエス様の心。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。



【参考】教会で起きるマインドコントロール


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2012年05月07日

復活の食卓 ヨハネ21章

(2012年5月6日 保守バプテスト・船岡聖書バプテスト教会)

みなさん。おはようございます。

先月についで、2回目のご奉仕になりますが、いかがお過ごしでしたでしょうか。

前回はちょうど受難週のはじまりだったんですが、その後、復活祭、イースターを迎えられたと思います。


最近、クリスチャンの友達と話題になったのが、この「イースター」という言葉でして、テレビで「イースター」が「春を祝うお祭り」として紹介されていたらしく、「これだから日本のテレビは…」と、憤慨していたんですよね。

でも、クリスチャン人口1%なんだから、まあまあ。。。というところなんですが、そもそも、なぜ「イースター」と呼ぶのか気になりまして、調べてみたところ、なんと、もともとは、ヨーロッパ、ゲルマン民族の春の女神「エオストレ(Eostre)」に由来しているんだそうです。
ちょうど、このエオストレに由来する春のお祭と、キリストの復活が暦の上で同じだったようで、やがて「イースター」が、復活祭を意味するようになったようです。
ですので、「春のお祭」というのも、あながち間違いではないわけです。

もう、ややこしいたら、ありゃしないですよね。
日本的に言えば、「春のお彼岸」が、いつのまにか復活を祝う日になっちゃったみたいなもんですよ。

考えてみれば、「イースター」なんて言葉を使わずに、日本語で「復活祭」と呼べばいいんですよね。私たちには、わかっているようで、わかっていないこと、また、自分たちの常識を、さも世間一般でも常識かのように思い込んでいることもあるのかもしれませんね。
さてさて、そんな復活祭から1ヶ月が経とうとしていますが、今日は21章全体から「復活の食卓」を皆さんと味わってみたいなと思っています。

● 失意の中で…

時に、復活というと、実は、そうは簡単に信じられないような話なんだと思います。
それは、一番身近にいた弟子たちでさえも、そうだったように思うのです。

21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」


イエス・キリストの復活という、天と地がひっくり返るような、ありえない出来事を目撃した割には、なんだか拍子抜けてしているような感じがしませんか。


ペテロは、もともと漁師です。イエス様の弟子になった時、網を捨てたのですが、再び、漁へと出かけていくのです。

ある人は、ペテロは、もう一度、イエス様に会うために出かけていったんだ…という人もいますが、「よし、もう一度、イエス様に会いに行こう!」というような、喜び勇んだ前向きな姿勢のようにも見えませんよね。

実に、イエス様とはいえ、死んだ人間がよみがえる、1度や2度、見ても信じられない…、
目の前に姿があるときはともかく、時間がたつにつれ、夢か幻か…、
そんな気分にもなってくるものかもしれません。
それは、ペテロだけではなく、ほかの弟子たちも一緒でした。

彼らは、主イエスを探すというよりも、本当に夜通しかけて漁をするんです。
イエス様が現れても、彼らはわからなかったようです。

21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。
 けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。

私たちも、もし、この当時、この現場で、復活した姿を見たとしたら、なかなか、その現実を理解しきれないのかもしれません。

例えばですね。。。
仮に、私が先週の金曜日、亡くなったとしましょう。なんだか、すごい、たとえですが…。
皆さんにも知らせが届いて、悲しみのうちに今日の日曜を迎えたとするじゃないですか。
ところが、死んだはずの私が、今日、何事もなかったかのように、おはようございます!と現れたら、みなさんどうします?
まず、自分の目を疑う、次に、死んだという話がデマだったかと疑う、ついには自分の頭を疑う…、とにもかくにも疑う、信じられないと思うんですよね。

弟子たちは、確かに、復活の主を見て喜んだんです。
1週間後、疑いを抱いたトマスの前にも現れ、トマスも見て、信じたんです。
でも、その時がすぎれば、それで終わってしまう。。。

しかも、十字架を目前に裏切ってしまった弟子たちです。弟子として失格じゃないのか…。
復活の主と出会っても、今の自分と、どんな関係があるというのか…、わからない。

どこか現実感もなく、どこかわからないまま、彼らは、漁へと出かけていったのではないでしょうか。

ところが、夜通しかけても魚一匹とれない、あー俺たちは漁師としても、だめだぁ〜!!
そんな失意の中にあったように思います。
そんな失意の中に、復活の主は再び姿を現したのでした。

21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

少々、言葉が丁寧に訳されすぎているんですね。
このとき岸辺からおよそ100m近く離れているわけですから、「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」「はい。ありません。」そんな声なんか届きやしないんですね。まるで、現実感がないんです。

おーい、食べるものがないのか〜
あー、ないよ、ない。今日は、全然、駄目だ。
だったらさあー、右の方に網を降ろしてみろよ。

まったく何いってんだ。俺たちは、夜通しかけて一匹も取れなかったんだぞ。
…なんて言いながら、半分投げやりで、網をバサ〜っと、投げたんだと思います。

21:6 …すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

その異様さに、ヨハネが、気がつきます。あれは主だ!
21:7 …シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。


上着なしに、イエス様の前に出られない、そう思ったんだと思いますが、ペテロらしいといえば、ペテロらしい。普通、上着を脱いで、湖に飛び込むんですよね…。
上着を着て、湖に飛び込んじゃったら、イエス様の前に出るときには、もう、びしょぬれ。ボタボタ水なんかたれちゃって。冷静なんだか、そそっかしいのか、よくわからない。
もし、私がおんなじことしたら、静から、もうちょっと、やめてよ…って、いわれてしまいそうです。


21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。
21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」


そこでは、食事の準備がなされていました。
ユダヤの世界で、一緒に食事をすることは、赦しや和解を意味しています。
逆に言えば、ユダヤでは、仲の悪い人、敵対する人、赦せない人とは、食事をしないんですね。
ですから、それは、まさに弟子たちにとって、赦しと和解の食卓が用意されていたんです。

21:11 …シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。
   それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。


普通、漁師が、取れた魚をわざわざ1匹、2匹…153匹とは数えないと思うんですね。
100匹以上はいるぞ、大体、150くらいかな…、漁師だったら、そのぐらいはわかるはずなんです。
でも、弟子たちは、これが本当に現実のことなのか…、あたかも確かめるような気持ちで、1匹1匹、数えたんだと思います。
著者ヨハネ自身も、あの時の網の重さ、魚の感触、153匹は153匹、その時のことを一つ一つを描写しながら、あれは夢の中の出来事ではない。幻を見ていたんじゃない。確かに、現実の出来事なんだ。そう言いたかったんだと思います。
確かに現実の中に、イエスがおられた。

21:12 「さあ来て、朝の食事をしなさい。」
 弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。

 このときになって、ようやく弟子たちもイエス様の復活が現実のこととして受け止められるようになってきたのです。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

そのパンや魚を手渡した主イエスの手には間違いなく、あの十字架で負った傷の跡がありました。彼らは、現実に、その手から、パンを受け取って食べたんですね。
それは彼らにとって、正真正銘、主イエスの赦しを現実として味わった瞬間でした。

● 三度の失敗、三度の赦し

21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。

さて、ここで、三度目、「3」という数字が出てきました。
かつて「3」という数字で馬鹿になる芸人がいましたが、「3」で心にグサってくる弟子がいますよね。
十字架の直前で、三度、イエス様を知らないといってしまったペテロです。

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。
  「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」
  ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」

以前のペテロだったら、迷わず、「はい主よ、ほかの誰にも負けません。私はあなたを、誰よりも、一番に愛してます」そういったように思います。
でも、イエス様のことを知らないと言ってしまったペテロには、そんなことはいえなくなっているんですね。

「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」

私があなたをどれだけ愛しているか、どのくらい愛せるか、あなたが一番ご存知のはずです。
このときのペテロは、自分自身の現実、限界も、しっかりと自覚していたんだと思います。

ところが、なぜかイエス様は、同じ質問を三度繰り返します。
ペテロも、その「3」に、心を痛めるんですね。あたかも自分が、三度知らないと言ったから、イエス様から責められて、三度、尋ねてられているような、そんな感じがしてしまったんでしょうね。

でも、イエス様は、三度、嫌味ったらしく、わざわざ三度、尋ねたんでしょうか…。
そうではないはずですよね。

ペテロの心が傷つき痛んだのは、決して、三度、尋ねられた時からではないんです。
三度、イエス様のことを知らないと言ってしまったその時…、その時に負った心の傷が、まだ癒えていなかったんですね。
死んでも従うと言った自分、でも従えなかった自分。だから痛むんです。
そんな三度失敗し、三度の傷を負っているペテロだったからからこそ、イエス様は、三度、赦しの言葉をかけていくんですね。


21:15 …イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」


 ペテロ、あなたは、決して失格ではないんだよ。
 あなたは、今でも列記とした私の弟子だよ。
 どうか、わたしの羊を養ってください…。

それでも、心の傷の痛みは、すぐには消えないのかもしれません。
でも、イエス様は、失敗した分だけ、3度失敗したペテロには3度、5度失敗したら5度、100回失敗したら、100回でも、何度でも語りかけてくださるのではないでしょうか。

「わたしの羊を飼いなさい。」 そして、「わたしに従いなさい。」

●もう一人の弟子

さて、実は、ここにもう一人、ペテロの背後で隠れて痛んでいた弟子が出てくるんです。
ペテロが三度「知らない」と言った大祭司カヤパの官邸に一緒にいた「もう一人の弟子」ヨハネです。

21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。
  この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。

この「イエスが愛された弟子」とは、まさにヨハネ自身のことです。
ですが、ヨハネ自身がこの福音書を書いているわけで、自分のことを「イエスが愛された弟子」と紹介するなんて、なんだか生意気のような気がするじゃないですか。でも、実は、そうではないんです。

イエス様が捕らえられ、大祭司カヤパの官邸に連れていかれたとき、ペテロは、周りの人から「イエスの弟子だ」と責められ、三度知らないといってしまうわけですよね。
ところが、一緒にいたヨハネは、誰からもとがめられることもなく、無事、十字架の元にまで行くことができたんです。
それは、なぜでしょう。。。

このヨハネの福音書の18章を見ると、実にヨハネが「大祭司の知り合い」だったことが記されています。
大祭司といえば、イエス様を十字架に着けた張本人でしょ。
ヨハネは、門番とも顔パス、誰にも責められることなく、だから十字架のもとにまで行けたんです。

一見すると、ヨハネは、弟子の中で唯一、十字架のふもとにまでいった弟子。いかにも従順で、立派なようにも見えると思います。
ですが、この時、ヨハネは「イエスの弟子」としてではなく、実は「大祭司の知り合い」として、その場にいたんです。
この事実を書いているのは、ヨハネの福音書だけです。

 ユダは公然と裏切り、ペテロは公に三度知らないと言った。
 でも、私は、影で裏切り、背後で否定していた…。

ヨハネは、そんな自分の裏切りを、この福音書でひそかに告白しているのです。

当然、イエス様にもわかっていたはずです。
状況からして、イエスの弟子でありながら、何事もなく無事に十字架の元まで来れるわけがないんですよね。
そこには、何か裏がある。
でも、イエス様は、そんなヨハネに母マリアを託し、復活の食卓へと招いたのでした。

だから「イエスを愛した弟子」ではなく、「イエスが愛された弟子」。
この時のヨハネには、ペテロのように「イエス様を愛しています」なんて、とても言えなかったのかもしれません。

●私たちの現実

さて、私たちは、「イエスを愛する弟子」でしょうか。
それとも「イエスが愛された弟子」なのでしょうか。。。

もし私たちが、できない自分の姿を見たときには、「はい、主よ、あなたを愛しています」…そういえるかというと、やはり、言えなくなってしまうときもあるかもしれません。

ですが、私たちは「イエスを愛する弟子」であると同時に、実に「イエスが愛された弟子」でもあるわけです。

できない自分もイエス様が愛してくださっているのなら、私たちも「それでも、イエス様のことを愛しています」…それでいいんですよね。

晩年、ヨハネは手紙の中で、こう記しています。
1ヨハネ 4:10〜11
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。
 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

愛は、競争ではありません。
できないことではなく、できるところでもって、持たないところではなく、持てるものでもって、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…。

「わたしの羊を飼いなさい。」「わたしに従ってきなさい」

「わたしの羊」「イエス様の羊」って…、実に、自分自身のことでもあるんですよね。
ペテロも、イエス様の羊。ヨハネも、イエス様の羊。皆さんも、イエス様の羊。
私たち、一人一人、みな、イエス様が愛する羊たちなんです。だから、愛しあうべき。

もし、私たちが、他に言うべきことがあるとしたなら、できなかったときの「ごめんなさい」かもしれません。
ところが、私たちは、特に大人になってくると、プライドが邪魔をするのか、「ごめんなさい」の一言が、素直に言いにくくなるときがあるような気がします。
もし自分の子供が、何か悪さをすれば、「なぜ、ごめんなさいって言えないの!」なんて、怒りそうな気もするんですが、いざ自分が、何か失敗や間違いをしても、誰かのせいにしてみたり、言い訳をしてみたり、自分の過ちにすら気づかなかったりして、「ごめんなさい」…って、いいづらい。そんな時も、ありますよね。

ペテロや弟子たちも、そうでした。自分たちの失敗を気にしている割には、実に言っていないのが「ごめんなさい。」の一言なんですね。
でも、イエス様は、彼らに「ごめんなさい」って言えないの!なんて言わず、そっと、和解のしるしであるパンを与えたのでした。

クリスチャンになってからも、この先、失敗すること、間違えること、多々あると思います。
深い傷を負って、自分はもうクリスチャンとして失格だなんて思うことも、あるかもしれません。
ですが、すべての罪、一切の罪が、イエス・キリストの十字架に釘付けられたんです。

 自分は失格だと思って、船に乗り込んだ夜…、
 漁をしても、何をしてもうまくいかず、失望に沈む夜…
 そんな暗い寂しい夜もあるかもしれません。

 しかし、夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立っておられた…。
 彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火と、その上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
  「さあ来て、朝の食事をしなさい。」

残念ながら今は目に見ることはできませんが、復活の主は今日も生きていて、私たちを和解の食卓、赦しの食卓、「復活の食卓」へと招いてくださっているのです。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった…。
 
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2012年04月06日

「赦しの食卓」ルカの福音書 7:36〜50

2012年4月1日 保守バプテスト・船岡聖書バプテスト教会(宮城県)

みなさん。おはようございます。

千葉、市川からやってまいりました竹下 力です。
普段は旅行会社で働いておりまして、その名も「にこまるツアー」。

おかしな名前でしょ?

そう、おかしな名前なんです。
普段は韓国旅行と、たまにイスラエル聖地旅行を手がけているんですが、教会の先生によっては、たまに、「ん?」とかいわれちゃうんですよね。
なぜ、こんな名前になったかというと、旅行を通じて、皆さんに笑顔になってもらえたらという願いを込めて、笑顔の「にこまる」なんです。
あー、そう考えると、いい名前じゃないですか。
そんな旅行業をしながら、教会でこうしたメッセージ、伝道活動をしております。

さて、教会の暦では、今週は受難週、イエス様が最後にエルサレムに入り、まさに金曜には十字架を背負われる日に当たります。

受難週で「食卓」といえば、聖餐式の原点になった、いわゆる最後の晩餐が、一番思いつくところかもしれません。
ですが、それはある意味、究極のゴール、まさに最後の晩餐でして、イエス様は、今週になって、突然、十字架を背負うことになったわけではないんですよね。

イエス様は、これまでにも多く「食卓」という場で語られています。

ちょっと、皆さんご家庭の食卓を思い浮かべてみてください。。。

そこは神殿とか、会堂とか、神様のために特別に整えらた宗教的な空間というわけではなく、生活のにおいがプンプンする、極めて日常的な空間、それが「食卓」という場所ではないでしょうか。

いろんな「食卓」があると思うんですよね。
楽しい食卓もあれば、時には喧嘩をする食卓なんていうのもあると思います。
そんな私たちの極々日常の食卓を見渡した時に、そこが王の王、主の主、神と呼ばれる方を迎えるのにふさわしい場所か…というと、決してそうではないと思うんです。

ですが、イエス様は、そんな多くの「食卓」に着き、様々なことを語られていたわけです。


今日の箇所の直前、34節を見ると、
イエス様が、「あれは大酒のみの食いしん坊。罪人の仲間だ」と非難を受けていたことがわかります。

ユダヤの社会では、同じ食卓を囲む、一緒に食事をするというのは、それ自体が、赦しや和解を意味します。
イエス様の周りには、実に多くの罪人たちがいて、イエス様は、その罪人たちと、よく食卓を囲んでいたんですよね。
つまり、その行為自体が、罪人と仲間同士、赦しを意味していたわけです。

それは誰かの家だったかもしれないし、大衆居酒屋のような場所だったのかもしれない。
でも、そんな罪人の「食卓」にもイエス様は来てくださる。そこにも「救い」をもたらしてくださる。
これが、まさに恵みなわけです。

ところが、今日のこの箇所の食卓は、同じ食卓でも、ちょっと珍しい食卓のような気がします。

 7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。

さらっと読めば、さらっと読めてしまうところなのですが、実に奇妙な話の連続なんです。
パリサイ派といえば、イエス様と、意見の対立していた人たちですよね。
まさに、「あれは大酒のみの食いしん坊。罪人の仲間だ」と非難していた張本人たちです。

ところが、そのパリサイ人が、イエス様を自らの食卓に招いたと言うわけですから、ありえない…というか、何か裏が大いにありそうな気がするじゃないですか。
背後には、不穏な空気も流れているのです。


しかも、そこへもってきて、「すると、その町にいた一人の罪深い女がやって来た」…と言うわけです。
おそらく、見た目、一発で罪深いとわかる女性、遊女、売春婦だったと思われます。

この「すると」と訳されている言葉。
他の訳では、「見よ」と訳されている注意、注目を示す言葉です。
「見よ」、よりによって、そんな「罪深い女性がやって来た」というわけです。

パリサイ人は、こういう女性たちのことを、汚らわしい、話したくもない、毛嫌いしていた訳です。
もちろん、この女性だって、そんなパリサイ人なんて大嫌い。
ある意味、イエス様以上に水と油だったわけですが、そのパリサイ人の食卓に、罪深い女までやってきちゃったという訳ですね。


これはもう、何が起こるに違いない。一触即発…
なんていう間もなく、この女性、イエス様の足もとに立つやいなや、泣きだしちゃった…というわけです。


当時、足を投げ出して、半分寝るような格好して食事をした訳ですが、そのイエス様の足元で、…涙で足を濡らし、髪の毛でぬぐい、口付け、キスをし始めた。しかも、ここはギリシャ語で未完了形、何度もキスをし続けて、やめなかった…というわけです。


さて、皆さんは、この女性の行為、この光景をどんなふうに見えるでしょうか。どんな風に想像していますか。。。

私たちは、対象のイエス様を知るがゆえに、この女性のしていることを美しい礼拝の姿として見てしまうかもしれません。
しかし、実際に、現場にいれば、いきなり来るや否や、お客さんの足元で泣き始めて、口付けしているわけですから、あの女は、なぜいきなり泣き出したんだろう、いきなり何をしているんだろう…、実に、実に、奇妙な光景が展開されている訳です。


そんな時、このシモンは、心の中でこう思うわけです。
39節、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」


日本語の聖書では「この方が…」なんて丁寧な言葉で書かれていますが、気持ちとしては「こいつが…」です。

「この女が誰で、どんな女であるか…」そんなことは、一目瞭然、その町で有名な罪深い女性なんです。
それがわかったからといって、別に預言者の証明になると言うことでもありません。

シモンが何を思っているかというと、
「こいつが、本当に預言者だったら、この女を、どう扱うか見物だぞ。罪深い女なんだから…。」といういうことなんですね。
「この女のしていることを、神が赦すわけがない。そのまま見逃してしまうのなら、神の言、律法を無視することになる。預言者とはいえない。偽者である。」という論法です。

彼にしてみれば、これで、あのイエスという男の尻尾が捕まえられる、ちょうどいい鴨がやってきた…といったところだったかもしれません。
彼は、一人の女性が涙している姿を、そんな冷やかな眼差しで見ていたのです。

しかし、これがきっかけとなって、この奇妙な光景の真実が、明らかにされていくことになります。

そこで、まず、イエス様が、語られたのが、このたとえです。

 ある金貸しから、500デナリ借りた人と、50デナリ借りた人。
 日本円で言えば、500万と、50万ですが、金貸しは、その両方とも赦してやった。
 どちらが、よけいに、この金貸しを愛するようになるかと言う訳です。

 多く赦されたものが、多く愛するということ。。。

この女性が多く愛してくれているのは、多く赦しを受け取っているからだ…というわけですね。


この女性は、確かに、これまで罪深いことをしてきたのかもしれません。
いや、この時、現在進行形で、罪深い女性だったことでしょう。
でも、生まれた時から、そうなりたくて、こうなった訳じゃない。
この女性の持つ本当の「真心」というものを、誰にもわかってもらえず、傷つき、痛み…、それでも一人、突っ張って生きてきたのでしょう。

そんな一人の女性が、このパリサイ人の食卓に出て行くのは、とてつもなく勇気が要ることだったと思います。
周りからは、白い目で見られ、ある意味、罪深い自分が、赤裸々にされるわけでしょ。
もしかすると、この女性自身も、すぐにでも外に追い出されるつもりでいたかもしれません。

しかし、主イエスは、この女性した行為を何なく受け止めた。
見た目や評判にかかわらず、この女性の真心を受け止めた。この女性自身、その全人格を受け止めたんです。
すなわち、この女性は赦されたんです。

だから、この女性も、感動しつづけた。涙があふれて、止まらなかった。キスをし続けて、やめなかったのです。

多く赦された者が、多く愛すると言うこと。
 
この女性の流した涙は、悔いの涙であると同時に、感動の涙…。
イエス・キリストに赦されていることを知った彼女は、ますます多くの涙と愛があふれてとまらなかったのです。


では、このパリサイ人シモンという男には、罪がなかったんでしょうか。。。
いいえ、そんなことはなかったわけです。


当時、当然アスファルトで舗装なんかされていない道をサンダル履きで旅をする訳ですから、足は汚れ、髪の毛も砂埃で汚れます。
ですから、そんな旅人を家に招く時、足を洗い、口付けを持って迎え、頭に香油を塗る、これは最低限のルール、礼儀だった訳です。
日本で言えば、まず上座へ通し、頼まれなくてもお茶を出す、みたいな? いわゆる、お約束です。
 
ところが、このシモンという男、そういったことを何一つしていなかったのです。
そのことでもイエス様のことを、歓迎しているわけではなかったことがわかります。

にもかかわらず、この女性のことは、罪深い女だと冷やかに見下していたんです。


「愛する」ということこそ、本来あるべき、律法の中心、聖書の中心です。
ところが、「愛する」というのは、単なる表向きの行為だけではなくて、心が伴うものではないですか。
それは、どれだけのことをしたかではないし、形だけでは取り繕えないんですね。
「真心」というもの。

このパリサイ人シモンは、確かに事細かな数多くの律法は守っていたかもしれませんが、肝心の「愛する」ということは見失っていたのです。

しかし、そんな、もてなしの礼儀を決定的に欠いていたにもかかわらず、愛を見失っていたにもかかわらず、イエス様は、このパリサイ人シモンの食卓にも着かれたわけですよね。

それは決して、シモンが赦されていなかった、イエス様が足を洗う水も出さんと、礼儀知らずなやつだと根に持っていたわけでもなく、このたとえ話からもわかるように、両方とも、赦されていたのです。
だから、そのままこのパリサイ人シモンの食卓にもついたんですよね。

ところが、このシモンは、自分の正しさのゆえに、落ち度や、自分の罪に気がつかず、まして自分が赦される必要性も感じていなかったのです。
これが、パリサイ人シモンの真実でした。

その為に、すぐ目の前に神の赦しがあったのに、実際に赦されていたのに、その赦しを感じることも、味わうこともできなかったのです。


イエス様は、そのシモンに向けて、こう語りかけます


 この女を見ましたか…。現在形。

 …この女を見ているかい。

  わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが…、
  この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました…。

  あなたは、できているつもりになって、この女性を見下しているけど、
  あなたができなかったことを、この女性はしているんじゃない…

  あなたもまた、多くのことが、赦されているんだよ…。


多く赦されるか、少ししか赦されないか…
それは、過去に罪を多くした人ほど、多くのことが赦されて、罪が少ない人は少ししか赦されない…というわけではないんですよね。

自分自身の罪というものを量ではなくて、質としてどれだけ自覚しているかです。

罪というと、つい犯罪だとか、倫理的に悪いこと…のように感じてしまうと思うんですが、聖書がいう「罪」というのは「的外れ」という言葉なんです。言葉を変えれば、失敗。野球のストライクかボールかで言えば、ボールです。

律法の中心「愛」から的を外す、失敗する。
誰かを愛せない、愛さない、愛していても失敗してしまう…それが、日本語の聖書で「罪」という言葉で表されているもの、すなわち「的外れ」ということになるわけです。

では、私たちが、誰でも、どんな人にでも、偏りなく、同じように愛せるか…というと、なかなか、そうは、できなかったりするじゃないですか。
実に、私たちも、自分が思っている以上に、多くのことが赦されているんです。

どうしても私たちは罪というと、なんだか自分が責められるような気がして、あるいは自分が劣っているような気がして、中々認めにくい時があります。
案外、私達は、自分が正しくありたいのかもしれません。

ですが、自分の罪が認められるのはいいこと、すばらしいこと

「あなたの罪は赦されています!」


49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。
  「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」


こういう考えは、私たちの日常の中に、多く溢れているような気がします。
もし何か事件を起こした罪深い人に対して、「あなたの罪は赦されています。」と公に宣言するとしたならば、「罪を赦していいのか」とか、「いったい何様なんだ。」とか、同じような反応があるような気がしますよね。


もしかしたら、この女性自身、そう思ったかもしれません。
彼女もユダヤ人。
罪が赦されたのはうれしいんだけど、本当に大丈夫なんだろうか…、そう思ったかもしれません。


実に、一人の罪人の罪が赦されるとき、その罪の責めは、赦した者に移ります。
この女性の罪を赦したときから、その罪の責めは、キリストご自身が負ったわけです。


「あなたの信仰が、あなたを救った。」

これは本来、日本語にはない言い方だと思います。
なので、少し意味がぼけてしまっているんです。

どうでしょう、皆さん。自分の信仰が、自分を救うと思いますか?

もし日本語的な表現で訳すなら、「あなたの信仰のゆえに、あなたは救われた。」
「あなたの信仰のゆえに、私があなたを救う。」となるところなんです。
当たり前のような話ですが、自分の信仰が救うのではなく、イエス様が救ってくれるんですよね。


 あなたは私のことを信じているから、その信仰のゆえに、私はあなたを助けるよ。
 私があなたの身代わりになって、十字架を背負うよ。
 だから、安心していきなさい…


イエス・キリストの十字架は、決して、ありがたい救いの教え、「宗教」ではありません。
イエス・キリストは、歴史の事実として、多くの罪人を赦し、その罪の責めを身代わり、
やがて、ついには十字架まで背負った、
十字架を背負ってもなお、その愛と赦しを貫いたわけです。


私達もまた、この女性と同じように、イエス・キリストの十字架によって赦された罪人です。
クリスチャンのみなさんなら、よく理解されていることかと思います。

ところが、ところがなんですよ。
私達の日常の中では、時に、パリサイ人シモンのようになってしまうことがあるような気がするんですよね…。
っていうか、ありますよね。ここは正直でいいんですよ。

パリサイ人シモンの姿、それも罪深い人間の姿、私たちの真実な一面かもしれませんね。

しかし、ここが一番のポイントです。

イエス様は、そんなパリサイ人の食卓にも着いてくださっているんですよね。
パリサイ人シモンも、この罪深い女性も、両方とも、赦しているんです。
両方にとって、赦しの食卓だったんです。

でも、その食卓で、イエス・キリストにある愛と赦しと恵みを味わえたのは、
なんと、自他共に罪深いことを認める、この女性だけだったというわけです。


みなさんが、今日も家に帰り、また今週も、さまざまな食卓につくと思います。
そこは、決して、イエス様を迎えるのには、ふさわしくない罪人の食卓かもしれません。
でも、イエス様は、その食卓にもついてくださっているんです。

そこには赦しがあり、そこに恵みがあるんです。
その究極が十字架直前の最後の晩餐、主の食卓、すなわち聖餐になるわけです。


 主イエスは、渡される夜、祝福して後、パンを割き、弟子たちに言われた。
 これは、あなたがたのために割かれる、わたしの体です。
 また杯も同じようにして言われた。
 これは、あなたがたの罪のために流される、わたしの血です。
 取って、食べよ。分けて、飲め…。


それは聖餐式のあの小さなパン…
物質的な意味でのパンそのものや、小さな杯に入ったぶどうジュースを、食べるか飲むかではありませんよね。

そこに込められた主イエスの「真心」、まさに十字架で肉を裂き、いのちをかけた愛と赦しです。

ぜひね、食卓に並んだ料理とともに、主イエスの十字架の赦しと恵みを味わってみてはいかがでしょうか。

 見よ、罪深い女がいた…。
 見よ、罪深い男がいた…。
 見よ、罪深い私がいた…。

 「あなたの罪は赦されています!」

 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。
 罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう…。

 しかし、イエスは言われた…。
 「あなたの信仰が、あなたを救った! 安心して行きなさい…!!。」

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2012年03月03日

「弱さの中に働くキリスト」マルコ4:35〜41, Uコリント12:8〜10

みなさん。おはようございます。

今日は、教会学校と大人の礼拝とのダブルヘッダー、2度目の登板となるんですが、
ある意味、いろんな経験を積んでいる大人の皆さんに語るのと違って、
子供たちに教える…というのは、私自身、いろいろと学ぶことも多かったような気がします。

今日の教会学校では、先のマルコの福音書の「嵐を静める」シーンが聖書箇所でした。
大人の皆さんには、もう一歩、深く踏み込んでお話させていただければと思っているんですが、
もし皆さんだったら、この箇所から、子供たちに、どのようなお話をするでしょうか…、
それを、ちょっと考えてみてほしいんですよね。

普通にパッと考えると、嵐を恐れた弟子たちの信仰の弱さを指摘して、
イエス様を信じれば大丈夫、弟子たちのようではなく、イエス様を信じましょう…というような
お話をしたくなるような気がします。
もちろん、これ自体が間違いというわけでもありません。

でも、そこをグッと堪えて、1歩踏み込んで考えてみると、自分自身がこの状況に置かれたら、
果たして何ら恐怖を感じないだろうか…というと、決して、そうではないんですよね。

私たちが、子供たちに何を伝えようと考えたときに、こうした聖書の記事から、つい瞬間的に、
理想的なお話、ある意味、いいお話に、まとめてしまうことがあるような気がします。
もちろん、それは、子供たちに信仰を継承してほしい、健全に成長してほしいという願い
からくるわけですが、実は、大の大人も怖がる、自分にもできないようなことを、
子供たちに要求してしまうことにもなるんじゃないか…、そんな気がします。

ですので、子供たちや誰かに教えるという前に、一歩身を引いて、自分自身のことに
置き換えて考えてみるのがいいと思います。

イエス様を信じていても、困難にぶつかること、怖くなること、不安になること、悩むこと…って、
実は、ありますよね。
それは私なんかより、人生のベテランの方々なら、よくご存知だと思います。
イエス様を信じていれば、地震や津波は襲ってこないんでしょうか。
タイタニック号は、沈まなかったんでしょうか。
決して、そうではないんですよね。

子供たちも、将来、いろんな波風嵐、困難にぶつかります。
不安になること、恐怖に襲われること、あるかもしれません。
たとえイエス様を信じていても、そういう患難があることを前提にしていないと、
実は、そうした恐れに襲われたとき、逃げ場がなくなる…、
どうすればいいのか、わからなくなってしまうような気がしますよね。

マルコ4:37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。

みなさんだったら、どうでしょうか。怖くありませんか。
よくよく状況を考えてみれば、この弟子たちの中には、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ…
少なくとも、ガリラヤ湖出身の4人の漁師さんたちがいたはずなんです。
船の操縦も慣れたもの、湖のことも知り尽くした、この道のプロが4人も乗っていたんですよね。

そのプロたちですら、恐ろしくも、怖くもなってしまう、実際に身の危険を感じる程、
ものすごい嵐だったんです。
単に弟子たちが弱いのではなく、この状況の中にあっても動じない、冷静さを保つというのは、
実は、かなりレベルの高い話ではないでしょうか。

どうでしょう。。。みなさんだったら、どれだけ冷静に保っていられるでしょうか?
イエス様みたいに寝てられますか?とても寝てなんか、いられないと思うんですよね。

寝るといえば、うちの静さんも、夜、テレビ見ながら、リビングで寝始めると、もう起きられなく
なっちゃうんですよね。
声をかけても、「あ゛」。話しかけても「ん゛〜」。
ホットカーペットがあるとはいえ、この冬でも、そのまま4時、5時、下手をすれば、朝まで寝てしまう…。
それだけ、強い信仰の持ち主といえるのかもしれませんが…、
そんな静さんであっても、さすがに、この嵐の中では寝てなんかいられない、
きっと、ぎゃーぎゃー騒ぐと思うんです。

4:38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。

静も騒ぐこの嵐の中をですよ、どうして、イエス様は、寝ていられたんでしょう…。
むしろ、その方が、すごいというか、不思議なくらいではありませんか。

所詮、小型の木造漁船です。
もちろん大きく揺れていたし、弟子たちも大騒ぎしているわけです。
しかも、この時、波をかぶって、船に水が入って、沈みかけていたわけですよね。
弟子たちは、必死になって、水をかき出していたんでと思うんです
ところが、振り向けば、イエス様、寝てるんです。弟子たちも、びっくりです。

4:38 …弟子たちはイエスを起こして言った。
 「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

弟子たちは、イエス様が寝ているのを見て、半分、憤慨もしているようです。
もし、これが一番年下のヨハネが寝ていたらどうでしょう。
ペテロあたりが、蹴っ飛ばして、たたき起こしているような気がしますよね。
私たちは、恐れや心配事が募ると、実は、怒りの感情も巻き起こってしまいがちなんですよね。

イエス様は、よっぽど疲れていたのか、はじめは本当に眠り込んでいたんだと思います。
ですが、どこからかは、この嵐の中、弟子たちが、どう対処するのか…、
半分寝ながら、様子を見守っていた…ような気もしますよね。
あたかも弟子たちの弱さが浮き彫りになってくるのを待っているかのようです。

4:39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
4:40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

「どうして、そんなに怖がるのか…。」
私たちにも、何かのピンチに遭遇したとき、多くの心配や、恐怖心がおきる。
それは、ある意味、当然ありうることです。
でも、そのような中で、無制限に恐れっぱなしではなく、いかに冷静な判断を保ち、
適切な対処ができるかが勝負ですよね。

実は、この時の弟子たちには、そんな自分の弱さ、限界を知るということが、まず大切だったのかもしれません。
なぜなら、弟子たちは、この先、福音宣教のために、
もっと、もっと多くの困難、身の危険も乗り越えていかなくてはならなかったわけです。

「信仰がないのは、どうしたことです。」
そうはいっても弟子たちは、仕事を捨て、イエス様についてきた人たちです。
決して、信仰が全くなかったわけではありません。
しかし、恐怖心のあまり、信仰なんて、どこかに吹っ飛んでしまったわけですよね。
冷静さを失ってしまったんです。そこに問題があったんではないでしょうか。

実に、イエス様は、助けを求めてやってきた異邦人や女性には「あなたの信仰は立派だ」とか、
「あなたの信仰があなたを救った」など信仰を認めています。
その割りに、ところが弟子たちには、「信仰がどこにあるのか」「信仰が薄いものだ」とか
弱さを指摘することが多いんですよね。

ですが、イエス様も、そうは言いながらも、そんな弟子たちを、助けていくんです。
それも、この時ばかりではありません。何度も、何度も、繰り返しです。

4:41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

実は、この弱さの中に働くキリスト体験、実体験の積み重ねこそが、
いかなる恐怖や困難にぶつかっても、冷静さを失わないで対処できる、
揺るがない信仰を作り上げていくために、弟子たちに必要なことだったんではないでしょうか。

今日の招きのことばに取り上げましたが、
イエス様は、決して、私たちの弱さに同情できない方ではありません。

私たち大人も、まず自分の弱さを認めるということが必要なような気がします。
そして、その弱さに働くキリストの存在を知ることになるわけです。

そのことを一番、明確に証しているのが、次に上げたコリントの手紙に記された
パウロの証であるように思うんですね。
パウロは、いわゆるダマスコ途上の出来事、教会を迫害に行く途中、強い光を浴びて、
その時以来、視力が弱くなったようです。
前の節では「肉体のとげ」という表現が出てきますが、おそらく、ここでも、その目のことで
祈っているのではないかと思われます。

なぜなら、こうして目が悪い、病気があるというのは、当時の社会通念上、神からの
祝福を失っている証拠、罪がある証拠かのように見られていましたし、
見方を変えればですよ、パウロの信仰が弱いかのようにも見られたかもしれません。
パウロ自身も、心のどこかで、否定的に考えていたと思います。
「肉体のとげ」のようで、実は、「心のとげ」となって、ずっと突き刺さっていたわけですよね。

Uコリント
 12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。

三度も祈るというのは、文字通りの三回かもしれませんが、象徴的に人間的な限界を
表す数でもあるんです。いずれにしても、パウロのことですから、それは真剣に切なる祈りを
捧げていたことでしょう。
しかし、それでも、この「肉体のとげ」、目が癒されることはなかったわけです。

12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。
 というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。…

もともとパウロは、ユダヤ教のエリート中のエリートだったわけですよね。
ある意味、怖いもの知らず、弱さとは縁がなかったかもしれません。
だから、愛だの、罪の赦しを解くキリスト教会が許せなくて、迫害していたわけです。
ですが、そのダマスコ途上の出来事で、「わたしは迫害するイエスである」という声を聞き、
視力を失い、自らが弱さを負うことで、人の弱さを理解するようになり、
キリストの愛の素晴らしさをも知るようになったわけですよね。

パウロにとっての、この「肉体のとげ」、弱さというのは、決して不幸なものではなく、
パウロの実体験上も、キリストの恵みを受け取るために必要かつ十分なもの、
なくてはならないものだったわけですよね。

「わたしの恵みは、あなたに十分である。わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる」

このことばは、直接、パウロの心に響いてきた言葉であると思われますが、そのことを思い出させてくれたわけです。

12:9 …ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

私たちも、自分の弱さや罪を知るからこそ、イエス・キリストを信じたんだと思うんですよね。
もし私たちが、自分の弱さを誇ることができたなら、これほど強いものはないと思います。
そうでしょ。弱さが誇れちゃうんですから。

12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。
 なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

これは、ある意味、究極ですよね。
なかなかパウロの境地にはたどり着けないかもしれません。

私たちには、いろんな弱さがあります。
時には、弱さがゆえに、恐れること、不安になることもあるともあると思います。
それ自体は、ある面、避けられない、あってもかまわないと思います。

でも、その時に、ただ恐れるのではなく、落ち着いて、私たちの内に起こりうる心の嵐を静めることの
できるお方、イエス・キリストに、いかに頼れるかでしょう。

私たちが不安や恐れ、あるいは怒りの感情に捕らわれているときには、
私たちの脳は、否定的な言葉で、ぐるぐる、いっぱいになっているはずです。
自分に向えば「どうして自分は駄目なんだろう」、他者に向えば「どうして、こうなんだ!」と怒りの言葉にもなります。
そんな時に、軌道修正してくれるのが、まさに神の言葉ですよね。

そこで今日は、聖書の中から、そんなことばを、いくつかピックアップしてみました。
これはあくまで単純に、私の独断と偏見で選んだだけなんで、皆さんそれぞれに、
この言葉の方が心に響くという御言葉もあると思います。

どれも有名な言葉ですから、よくご存知の方もいらっしゃるとは思うんですが、
イエス様も嵐をことばで静めたように、こういう言葉を意識して、見返したり、頭の中に刻んでおいたりすると、
神の言葉が私たちを守ってくれるんじゃないかな…と思うわけです。


〜弱さを感じたときに読みたい神のことば〜
 (まだまだ、いろいろあります。自分なりに作ってみるといいと思います)

ヨハネ16:33 「…あなたがたは、世にあっては患難があります。
しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

 これは、今日の教会学校での暗証聖句にさせていただきました。
 「あなたがたは、世にあっては患難があります。」…実際に、あるんですよね。
 「しかし、勇敢でありなさい。」…勇気を持って、行動しなさい。挑戦しなさい。
 「わたしはすでに世に勝ったのです。」
 …イエス様もまた、弱さを負いながらも、十字架の苦しみ、恐怖に打ち勝ったわけです。
 そのイエス様が、わたしたちと一緒にいてくださるわけですよ。

 子供たちには、これからの将来、たとえ恐れを感じたとしても、
 勇気をもって、チャレンジしてもらいたいという願いを込めて、
 この言葉を選んでみました。

ヨハネ 20:19 …「平安があなたがたにあるように。」 

 イエス様が復活したときの弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、戸を閉めていたわけですが、
 その弟子たちの中に入ってきて、イエス様が語られた言葉です。

 これはヘブル語でいう「シャローム」、挨拶の言葉です。
 朝でも夜でも、出会ったときも、別れる時にも使えます。
 朝には「ボーケルトーヴ」という朝の挨拶がありますが、いつでも使える、
 日本語で言えば「どーも」に相当するかもしれません。
 でも日本語の「どーも」は、何が「どーも」なのか、あまり意味はないんですが、
 ヘブル語では「平安があるように」という言葉が交わされているんですよね。

 「平安があるように…」
 これは、自分に対しても、他者に対しても、持ち続けたい、祈りの言葉でもあるように思います。


マルコ5:36 「恐れないで、ただ信じていなさい。」

 これはヤイロという人が娘が死にそうなので助けてほしいと、イエス様にお願いし、
 家に向う途中、娘が亡くなったという知らせが入った…、その時、イエス様が語られた言葉です。

 単純、シンプルな言葉ですけどね。
 ちょっとしたときに思い出せて、「恐れることはないんだ」と勇気付けてくれるのではないのでしょうか。

マタイ11:28〜30
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
 わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 …わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

以前から疑問だったのが「休ませてあげよう」…といっても、結局、荷は負うわけじゃないですか。
どうして休まるのか、荷が軽くなるんだろうって、思っていたんですよね。
でも、自分ひとりで負うのではなく、「わたしのくびきは負いやすく…」
実は、イエス様が一緒に負ってくださるんですよね。

詩篇23:4  
 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
 あなたが私とともにおられますから。

 有名な詩篇23篇ですが、なぜ恐れないのかといえば、やはり神様がともにいてくださる、
 ともに歩いてくださる…、その実感、安心感からですよね。

 詩篇の中にも、いろいろと、いい言葉が出てきますよね。

詩篇  30:5 …夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

 いつまでも、悲しみや、不幸が続くわけではないんですよね。

詩篇 103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
        
 「わがたましいよ…」というのは、詩篇によく出てくるフレーズですよね。
 これは詩篇の作者自身が苦しみにあるとき、悲観的な言葉で心がとらわれているとき、
 自分の魂、心、脳みそに言い聞かせているように思うんです。

イザヤ41:14 恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。
――主の御告げ。――あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。

 神さまは、繰り返し「恐れるな」と語りかけていますが、特に、このイザヤ書には多く出てきます。
 それだけ私たちは、恐れるからでしょう。
 その中でも、この「虫けらのヤコブ…」って、好きなんですよね。なんか、いいじゃないですか。

 たとえ「虫けら」のような私たちであったとしても、神様は助けてくださるんです。

申命記8:16 …あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。

 神様は、イスラエルの民を、厳しい荒野を通らせたんですが、
 「ついには、しあわせにするためであった」というわけですよ。
 私たちも試練の中を通るときもあるわけですが、それも「ついには、しあわせにするため」とはいえないでしょうか。

ローマ8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。


 この言葉も同様ですよね。
 一時は、なぜこんなことが起きるんだろうということって人生には度々あるわけですが、
 後から振り返ってみると、あの経験があったから…ということって、多分にありますよね。
 たとえ不幸や失敗に思えるようなことでも、実は、無駄な経験は何一つもない、
 そこから学ぶこと、受け止め方一つで、すべては「益」になっていくんです。

Uコリント 12:9 「わたしの恵みは、あなたに十分である。
  というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」

先ほども取り上げましたが、自分の弱さがゆえに、自分が嫌になったり、
苦しくなったりすることもありますが、弱さがあるがゆえに、人の弱さも理解できれば、
キリストの愛も知ることができたわけです。
そう考えれば、弱さもまた、実は、「恵み」の一つなのかもしれないですよね。

■誰かが弱っているときには…

ローマ 12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。 

これはおまけですが、わたしたちは、弱っている人に、無理に励ましたり、
すぐに元気になってもらおうとしてしまうことがあります。
でも、まずは、喜ぶものと喜び、泣くものと一緒に泣く…、
心に寄り添うことの方が先決なのかもしれません。

■クリスチャンのライフスタイル

Tテサロニケ 5:16〜18
 いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべての事について、感謝しなさい。
 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

最後に、クリスチャンのライフスタイルとしてみましたが、
この言葉は、何をするにしても、私たちの人生全般にわたっての生き方、
一つの指針ではないかな…って思うんです。

静岡の実家のお便所に掲げられていることで有名な御言葉なんですが、

もし、これができたとすれば、実は、しあわせですよね。

とはいえ、決して、いつも喜べることばかりではないと思います。
でも、まったく逆を考えてみてください。
いつも悲観的に捉え、誰のことも信頼できず、すべてのことに不満に思っているとしたら…
これって、ものすごく不幸なことですよね。

決して、いつも喜んでいられるわけではないし、回りの環境や他人を変えられなかったとしても、
自分自身は変えられます。
いつも喜ぶことを心がけ、心の不安は神にゆだねて祈り、わずかなことでも感謝するように
心がけていけば、実は、しあわせな自分に変わっていけるんではないんでしょうか。

そして、この最後の一文が大事なんです。
実に、「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられること。」、
神様も、それを望んでいる、それが、御心だというわけです。

まだまだ、そのほかにも、いっぱい、いろんな御言葉があると思います。
私は、こっちの方がいい、この言葉に支えられた…ということばがあると思います。

ですので、赤線引くなり、手帳やカードでも、自分なりに、そんなことばをピックアップして、
心、脳みそに刻み込んでおくと、いざ人生の嵐に遭遇したときにも、
そんな神の言葉が、心の嵐も静めてくれるのではないでしょうか。


Tテサロニケ 5:16〜18
 いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべての事について、感謝しなさい。
 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
 

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posted by holyhope at 15:07| Comment(2) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする