2012年02月05日

振り向いたキリスト マルコ5:25~34

2月4日 TPC 東京プレヤーセンター 昼の礼拝

みなさん、こんにちは。竹下 力です。
私は、普段、月曜から金曜までは、旅行会社で働きながら、
こうした聖書のメッセージをお届けする働きもさせていただいています。

私の妻もゴスペルシンガーみたいなことをやっておりまして、
本当は、今日は、特別賛美でもと思っていたんです。
ですが、日曜からインフルエンザになってしまいまして、
もう直ってはいるんですけれども、念のため、お休みさせていただきました。

こういう時に限って、私の仕事も忙しくて、仕事に、家事に、看病でしょ。
でも、2人で倒れるわけにはいかないですから、
ウィルスなんかに負けねえ〜という信仰か、気合か、意地で乗り切るような1週間でした。
本当にはやっているようなので、みなさんもぜひ、気をつけてくださいね。

さて、イエス様もいろいろなところを旅しながら、各地を周っていたわけですが、
この時には評判が広がり、もう人気絶好調、
あそこに、イエスがいるぞ!とわかると、たちまち多くの人たちが集まってきました。

テレビもラジオもない時代ですからね。
何か珍しいものでも見れるんじゃないだろうか…。何か、ご利益があるかもしれん。
いわゆる野次馬たちも、大勢、集まってくるんです。

 5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
 5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
 5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
 5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。

この長血をわずらっていた女性もその群衆の中にいた一人です。
病気なのに、意気のいい群衆を掻き分けていくわけですから、
それはもう大変だった思います。

 「お着物にさわることでもできれば…。」なんて、言ってたら、触るどころか、跳ね飛ばされちゃうんですね。

「着物に触って、きっと直るんじゃ〜!」

こんぐらい勢い(?)、とにかく必死だったと思うんです。

あたかも、ヨン様か、最近ではグンチャンかもしれませんが、
あわよくば握手してもらおうと押し寄せる、おば様方のように、
やっとの思いで、つかんでみたら、ペテロだったりしてね。

「あんた、もう、邪魔!」

なんか言いながら、とにかく、必死で、イエス様の着物に触ったんだと思うんです。
すると、その瞬間、直った!!!というんです。

 5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。

私たちは、このような話を見聞きするときに、
いやー、そんなこと、あるんかな…とか、いやいや、そう信じることこそ信仰だ…とか、
彼女の病気が癒された「奇跡」そのものや、その「奇跡」を呼び起こした彼女の信仰とかに注目していくことが多いような気がします。

ですが、こうした病気が治ることは、実際、ままあるんです。
私たちは、普段、西洋医学的な考え方にどっぷり浸かっていますから、こうして病気が治ってしまうのは、まさに「奇跡」のように思えるかもしれません。

でも、東洋医学の世界ではどうか。
「きっと直る」、まず、その気になることが、治療の核だというんです。
その気になることで、本当に免疫力や自然治癒力も上がるらしいんですよ。

もうだいぶ前ですが、私の叔父も、癌の手術をしたんです。
でも、取りきれなくて、全身転移、医者からは余命3ヶ月の宣告を受けたんです。
それを聞いた私の父が、だったら最期は自宅で…と、退院させたんです。

でも、本人は、その告知を聞いていなかったんです。
というのも、手術をした後、ひどい感染症を引き起こしまして、耳が聞こえなくなったんですね。
一時は、顔がパンパンにはれ上がり、呼吸も3回止まるほど。
その度ごとに、私の父親や牧師が駆けつけては、これまた大きな声で祈るわけですよ。
半分、逝きかけていたのを、無理やり引き戻されて、今度は退院でしょ。

それまでの叔父は、神様も何も、一切、信じようとしなかった人だったんですが、神様が救ってくれた!そう信じきっちゃったんです。

そしたら、どうでしょ。。。

全身に転移していたはずの癌が、本当に、きれいになくなっちゃったんです。

なんだか、半分、ずるいような話なんですけどね。
なんせ、本人は告知されていないんですから。
ですが、とにもかくにも、こうした病気が治ることは、実際にありうるんです。

しかし、本当の奇跡は、実は、この後から起きていったんです。


 30 イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。

「誰か」と言われても、もう、その他大勢の群集たちが、押し寄せているわけですよね。


弟子たちにしてみれば、
「先生、変なこと、言わんといてください。
 誰か…って、みな触っています。私だって触っていますよ。」
そんな感じだったと思うんです。

この時、実は、ヤイロという人が、娘が死にそうだから、助けてほしいっていうんで、先を急いでいたんですよね。
ヤイロも、「先生、お願いですから、急いで、娘のところに来てください。」
もう、必死で、先を急いでいたと思います。


ところが、それでも、イエス様は、動こうとしない…

 32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。


なぜイエス様は、この状況の中、この一人の女性のことに、こだわったのでしょう…。
そこに、何か隠された訳があるような気がしますよね。

そこで今日は、この女性が病気を患っていた「12年」という時。

この「12年」という時…というものを考えてみたいと思うのですが、皆さん、12年前は、何をしていましたか。

私は今38です。12年前といえば、26歳になります。
26歳といえば、われらがJTJ神学校で2年生の時だったんですね。
この時、生活のために、昼間、アルバイトをしながらたったんですが、
社員並みに働かせてもらいまして、「いのちのことば社」っていうんですけどね。
同期のカイク加藤さんが3月見事に卒業していく中、もう1年余計に勉強させていただける恵みを与えられたわけです。

ま、それでバイトを辞めまして、とにかく卒業し、
その後、結婚もし、働きながらの伝道活動を行い、1社、2社と渡り歩いて、
今、「にこまるツアー」で、5年目です。

皆さんもそうだと思いますが、12年の間には、いいことも、悪いことも、いろいろなことがあるものですよね。

でも、この長血の女性、彼女の場合には、そういった12年という時、ずーっと病気のために苦しんでいたんです。
それは、それは、長い長い12年間だったはずです。

「長血」という病気が、今でいうなんという病気かは断定できないんですが、出血を伴う婦人科の病気だと思われます。
そうすると、ユダヤの社会では、彼女に触れば、汚れる…、忌み嫌われてしまうんですよね。
その病気のために、仕事も結婚もできなかったかもしれません。
そんな彼女が、人ごみ、群衆の中にいることなんて、もっと赦されない、非常識なことだったんです。

だから、群衆の中に「紛れ込み」、うしろから、ばれない様に触っていたんですよ。
実に、12年もの間、社会も、また彼女自身も、彼女の人格を否定し続けていたのです。


「イエス様に触ったなんて言えない!」
まず彼女は、そう考えたと思います。ですが、イエス様は捜し求めて、先に進もうとしない。

そこで彼女も、覚悟を決めて、恐る恐るイエス様の前に進み出ていくのです。

 33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

彼女の真実ってなんだったんでしょう。
それは、単に病気が治ったということだけではないはずです。

12年もの間「長血」という病気だったこと、
いろんな医者にかかっても駄目、ひどいめにもあわされ、
全財産使いはたしてしまったこと、絶望に陥ったこと、涙に暮れる日もあったと思います。
その悔しさや悲しみ、あるいは憎しみといった感情もあったかもしれません。

たとえ病気が治ったとしても、「よかったね!」だけでは、すまないことってあるじゃないですか。
あの医者たちは一体なんだったのかとか、私の12年間は一体なんだったのかとか…、
もし彼女がそっちの方に考えが行ってしまうとしたなら、彼女が納得できるような答えは見つからないんですよね。
そこに、救いもないんです。
心に傷を負ったまま、結局、病んだままになってしまうんです。

「12年」という時…。これが、彼女の真実です。

彼女は、イエス様に、その真実を余すところなく打ち明けたのです。

その悲しみや、苦しみ、12年間の真実を、全部、余すところなく打ち明けた、その後に、
イエス様は、彼女に語りかけたわけですね。


 「娘よ…。」

それは、まさに、彼女の全人格に向けて、呼びかけられた言葉でした。

 34 「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。…」

こうしてはじめて、彼女の全人格に対して、本当の奇跡、「救い」が訪れたんですね。
体だけではなく、心にも「元の気」、元気を取り戻せたんです。

 34 「…安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

この先、彼女が、まったく病気にかからなかった…わけではないと思います。
クリスチャンになったら、カゼ一つ引かない、虫歯一本ならないという人は、まずいません。
カゼにもなれば、虫歯にもなります。
私の父も、癌だったわけですが、父は癌が消えることはなかったわけですね。
人間、いつかは、何らかの理由で、この世の生涯を閉じる時が来ます。
彼女もまた、同じです。


しかし、たとえ死を迎えるような病気になったとしても、
もし、心は平安、すこやかにその時をすごすことができたとしたなら、
それは、病気といえるでしょうか。
病気も、もはや病気ではなくなっているような気がします。


 先ほど紹介した、余命3ヶ月と宣告された叔父ですけど、
もともと脳卒中で半身不随がありまして、ひどい劣等感の固まり、お酒を飲んでは、わめき散らしてしまう…そんな人だったんですよね。

教会に行くようになってからも、しばらくは、あの人は嫌いとなれば、嫌な顔して、握手もしない…、そういうタイプの人だったんです。
でも、徐々に、徐々に、変えられていきまして、いつしか、誰にでも、笑顔で接するようになっていったんです。

退院してから3年、ある日、肺炎になりまして、病院に行く途中、眠るように天国へと旅立っていきました。
とっても穏やかな最期だったようです。
叔父が、その生涯を、健やかに幕を閉じるためには、その3年という時も、また必要だったのかもしれませんね。

時に、私たちは、先を急ぐあまり、立ち止まって振り向くことができないことがあるような気がします。

 5:31弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか」

特にこの現代、次から次へと情報が流れていて、時代は瞬く間に変化していきます。
忙しいという字は、心を亡くす…と書きますが、
立ち止まってなんかいられない、振り向いてなんかいられない…、
一人の人のために、もしかしたら自分自身のことですら、振り向く余裕を失ってしまうのが、この現代なのかもしれません。

しかし、イエス・キリストは、そうではありません。

 …イエスは、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。
 …イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。


イエス・キリストは、目には見えません。耳で言葉を聞くことはできません。
しかし、今日も、ここにいて、私たち一人一人の声を聞きたいと願っている。

信じて救われておしまいではなく、信じた時から、本当の奇跡、
全生涯、全人格をかけた救いが始まっていくんですよね。

私たちが、心も体も元気であるために、たった一人のためにも、振り向いて、
その人のことを知ろうとしてくださる…、それがイエス・キリストです。


 彼女は、イエスに真実を、余すところなく打ち明けた・・・。



いま少し、イエス様の前に、私たちの真実を打ちあけて行く時を持ちたいと思います。


今、皆さんが、人には言えない、一人、心に抱え込んでいる悩みはないでしょうか。
もしかしたら、それは「罪」と呼ばれるものかもしれません。
過去に負った傷、まだ癒されていない傷なのかもしれません。
でも、真実なそのままの私を、イエス様に打ち明けてみましょう。


あなたの信仰があなたを救った…!! 病気にかからず、すこやかでいなさい。



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2012年01月28日

【原発問題】電気料金の値上げ。原発はコストが安い?

「今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。」ハガイ1:5

今回は少し「電気料金」の話をしてみます。
今回、原発が使えない分、火力の燃料費分がコストあがるというわけですね。
だから、やっぱり「原発が必要」という話になりそうで、ちょっと心配。。

でも、原発には、これまで多くの国のお金(つまり国民の税金)が使われているので、
これまで安く提供できている「ようにみえる」だけなのです。

実は、知らない間に、別の形「税金」として、支払っているのです。

東電の場合、今回、燃料費のコスト増加分は約6500億円のこと。
ですが、原子力には、核燃料サイクル事業において45年間で少なくとも10兆円、
さまざまな研究費用、開発費、人件費、
また原子力を(安全に?)利用するために、保安院の審議官や、安全委員会の委員には、
一人年間1000万円以上の給与を支払い、他にも多くの機構が存在しています。
地域への助成金などなど、これらを全て含めると、火力よりも原発のコストははるかに高くなってしまいます。

ただ、これらの原発のコストは「電気料金」ではなく、「税金」で国が支払っているので、
電力会社は安く電気を提供できるという仕組みなんです。


いざ事故になれば、損害賠償、廃炉費用にかかる経費は「兆」の単位です
(燃料棒取り出しだけで1兆円の試算のようです)。

もし、これらの費用が他のエネルギー政策に割り当てられていたら…、
「増税」もいらなかったという話ことになるのかもしれませんね。。。(^_^;)


今は、こうした全てをを見直す時期。
国民も強い関心を寄せていないと、また元の木阿弥に戻ってしまいます。

ちなみに原子力の発熱量は火力よりも多く、海水温をあげてしまうので、
温暖化防止にもならないのです。
今は火力で凌ぎつつ、いち早く次世代エネルギーを模索、開発したほうが
将来性があると私は思います。

昨今、航空会社も燃油サーチャージを徴収していますが、かかるべき燃料費は、
当然、消費者が負担せざるを得ない部分はあると思います。
今、この時期、節電できる仕組みを考えるなど努力は損にならないでしょう。

安い電気がないと困るから、誰かを犠牲にしていいことはないですよね。

 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

 そこで、イエスは彼に言われた。
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

 これがたいせつな第一の戒めです。
 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
マタイ22:36〜40

ラベル:原発
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2011年12月21日

天地創造と原発

「はじめに神は、天と地とを創造した…。」(1:1) 

原発について読み漁っていますが、ずっと頭に引っかかっているのは天地創造です。
およそキリスト教と科学は、「進化論」をきっかけに、どこか喧嘩してしまっている部分が
あるのですが、私は残念な話だと思っています。
 

創造7日間の記述と科学の推論と照らし合わせると、決して矛盾ばかりしているわけではなく、
一致してくることも多いのです。
 

ところで、原子炉、核分裂の燃料となるウランは、いつから地球上に存在していたのでしょう。
聖書でいうところの、創造の「1日目」からです。

2 「地は形なく、何もなかった…」 

科学的見地から見れば、地球誕生直後は、初期地球は無数の隕石が衝突し、
高温でドロドロの溶岩、マグマの状態でした。
その時の熱エネルギーの一つになったのが、実にウランの核分裂らしいのです。

地球全体が、金属でも溶かしてしまう高温状態、まさにメルトダウン。
このドロドロのマグマが、地球内部に残り、多くの地熱を蓄えているから、
今の地球環境もあります。
また、それが故に火山活動もあり、プレートが動き、地震活動もあるわけです。 

ウランも必要があって、存在していたわけです。
もちろん、ウランの核分裂によって、プルトニウムも必然的に存在していたはずです。
ごくごく微量ですが、自然界にも天然プルトニウムも存在しているそうです。 

この時の大気のほとんどがCO2、多くのスモッグで真っ黒の状態でした。
もちろん放射性物質もバリバリです。
外から見れば、暗黒の雲に覆われた「闇」に包まれていました。
つまり、地球全体が巨大な原子炉みたいなものだったわけです。 

2 …やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 

しかし、地球には生物にとって、なくてはならないものが備えられていました。
「水」です。
高温ですので、この時には、まだ水蒸気です。

次に「光」です。 

3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。 

これをビッグバーン的な光の創造と考えてしまうと、科学的な矛盾が発生します。
しかし、11節で、すでに天も地も創造されているので、太陽も、光もあるはずです。

通常、日本語では「光があった」という表現はほとんどしません。
これも誤解のもと。
では、普通、日本語では「光がある」状態のことを何というでしょうか。。。
「明るい」と言うはずですよね?
日本語文化圏では、光を物質的な存在としては認識していないのです。
(英語ではlightを量的にも表現します。)

 …神は「明るくなれ」と言われた。すると「明るくなった」。 

これが、「光がある」ということ。私たち日本語文化圏に住む人間の感覚での表現なんです。

核爆発によって巻き上げられている暗黒の雲に覆われていた地球には太陽光線が
届いていませんでした。
しかし、巨大な隕石が衝突することによって、スモッグが蹴散らされ、地上に太陽の光が
もたらされました。
つまり、「明るくなった」のです。
 「1日目」です。

しかし、まだ太陽や星が見えるほど、クリアではありません。
ただ、これによって多くの大気中の熱や、スモッグ、CO2も、大気圏外に分散されました。
地球は徐々に冷えていきます。
やがて、水蒸気も地に落ちていくようになり、初期の海ができます。

 7 こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。

 初期の海はまだ高温で、高い気圧のもと200度くらいだったと言われています。
多くの酸化物、鉱物、放射性物質も多く含んでいるので、まだ生物が生息できる状態ではありません。
これが「2日目」です。

 9 神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。 

ウランの核分裂もおさまり、徐々に冷やさた溶岩は固くなっていきます。
固くなった地表が内部の圧力によって、火山や地震、地殻変動となって押し上げられます。

こうして地面が出きると、さらに海水の酸も中和されていきます。
高濃度の放射性物質も、少しずつ放射線が減少していきました。 

ここで、ある生物が生息する三大要素が揃います。
CO2」、「光」、「水」です。

そこで登場するのが、植物です。

 11 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を 
 結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。
 

植物によって、光合成がはじまると、CO2から、酸素が生み出され、大気も冷えていきます。
かすんでいた大気も、徐々に浄化されていき、太陽や月、星が見える様になっていきます。 

14 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、
 季節のため、日のため、年のために、役立て。 

 こうして、魚、鳥…、動物たちが生息する環境ができました。

 ここまでの順番は科学と聖書は矛盾しません。
およそ3000年前の記述が、ここまで一致するのは、不思議です。

そして人間が創られたのは、最後の6日目です。
進化論上でも、人間は、一番新しいといってもいい動物でしょう。 

私たち人間が生息するためには、この「6日目」の環境が必要です。
この環境に合わせて、人間は創られています。 

当然、「1日目」の環境では過ごすことができません。
2日目」でも無理です。
3日目」で、ようやく植物が生息可能な環境でした。 

地球上の多くのウランは安定していますが、ごく一部、まだ核分裂を起こす
ウランが
残っています。

原子力というのは、初期の地球、「1日目」で使われたウランの燃えカスを
利用する
ことから始まりました。 
神が「1日目」で使われたウランの燃えカスを、人間がわざわざ掘り起こして
利用しようと
した結果、地震や津波で制御しきれなくなったのが、今回の
「福島」の事故です。

皮肉にも地震や津波も、実は地球初期にウランの核分裂によるエネルギーに
よって
生成されたマグマの圧力があるからだとすれば、なんと皮肉なことでしょう。 

なぜ、わざわざ「1日目」に戻る必要があったのでしょう…。
今は、「2日目」のように、水で一生懸命冷やしている…そんな状態なのかもしれません。 

進化論の問題点は、「生物は環境に応じて、変化できる」という楽観にあります。
残念ながら、DNAの研究から、人間に突然変異できる可能性のあるDNAを持つ動物も、
人間から進化した動物も、現在のところいません。

もちろん多少の環境なら、突然変異しなくても対応できます。
しかし、人間は、真に原子力をコントロールできるほどの能力もなければ、
放射能汚染された環境に対応できるほど、万能でもないということかもしれません。

私たちに必要なのは、「1日目」ではなく、「6日目」の環境です。
6日」というと簡単に思われがち、読んでも6分にもならないですが、
神の「6日」の中身は、科学…人間から見れば、何十億年分に匹敵する内容なのです。
神が「6日間」かけて創ってくれた自然の恵みを、もっと大切にしたいものですよね。
 


…そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。
  見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。 創世記 1:31

ラベル:創造論 原発
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2011年12月16日

【原発】福島原発から流出した放射性物質は「ゼロ」?

 
今日の午後なされる「冷温停止」宣言に掻き消されてる大切なニュースです。

福島だけではなく、本当に東北の復興を願う方、三陸の牡蠣、気仙沼や石巻の漁業関係者、
魚を食べたい人も、ぜひ見てほしいと思い
ます。
原子力安全・保安院は、福島原発から流出した放射性物質を「ゼロ」とみなすというのです。

... 正直に言って、あんまりネガティブな言葉は書きたくはありません
でも、本当に大切な情報が伝えられていないような気がするのです。知っていて、納得する
のであればいいんです。
この記事を出しているのは、見る限り「東京新聞」だけです。私も知ろうとしなければ、
知らないままで終わっていると思います。今
の私にできる一つは、「伝える」ことだと思います。
これがどんな意味を持つのでしょうか…。

原発の事業者には、当然、法律で放射性物質の流出を規制されているわけですが、
今回の事故では4月の4700兆ベクレル(規制値
の2万倍)の漏出をゼロ、12月4日の
2600億ベクレルのスト
ロンチウムもゼロ、今後も「事故収束まで」、漏出や意図的な
放出
があっても、すべて「ゼロ」、つまり規制すべき機関が「規制しない」(責任はとら
ない)というのです。

すでに流出した放射性物質はどうしようもないですが、今後も規制されません。
「ただちに」健康に影響を与えない範囲で、「世論」が許す限り…ということになるんだろうと思います。

「安全」に原発を廃炉をするためには、時に、やむを得ない時も出てくるのかもしれません。
でも、誰の安全でしょうか?
今、とりあえず「冷温停止」しました。
優先順位は、廃炉や何年かではなく、これ以上放射性物質を流出させない、国民に被害を
与えないように工程は組むべきです。しかし
「規制はない」のです。
廃炉はどんなに時間を懸けても安全に、除染は1日も早く速やかになのです。

原発を守るためなら沿岸の魚介類の汚染は仕方なく、さらに食物連鎖で濃縮されて
いくことにもなります。
「規制」もなく、「ただちに健康に影響を及ぼすレベルではない」という曖昧な発表の元、
またまた「風評」で判断されることになり
ます。
現実問題として、流出した物質は黒潮にのって、多くは北上します
およそ茨城県から北海道の太平洋沿岸、近海で取れる魚介類、そこを通る、さんまや
カツオも危険にさらされます。
復興を目指す気仙沼、三陸の漁業関係者にも大きなダメージになるはずです。

「原子力安全・保安院」は、電力会社が適切に原発の管理、運営しているかをチェックする
機関なのですが、あくまで「原子力」の「
安全」「保安」であって、決して近隣住民、漁業関
係者、環境をは
じめ国民の「安全」ではありません。管轄外なんです。

もし、なんとなく、それでも仕方がないか…で終わるなら、国や東電、保安院と変わりません。
今、この事態になっているのは、これまで「なんとなく」原発を暗に認めてきた結果だと、私は思っています。

しかし、私たちには選挙権があり、また原発について国民投票を実現しようとする活動もされています。
その時、適切に判断してもらうためにも、まずは情報をシェアしていくことだと思うのです。

東京新聞 「保安院 海への汚染水 ゼロ扱い」
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011121690070643.html

 福島第一原発事故で、何度も放射性物質を含む汚染水が海に漏出したが、
経済産業省原子力安全・保安院は「緊急事態」を理由に、法的には流出量は「ゼロ」と
扱ってきたことが本紙の取材で分かった。
今後、漏出や意図的な放出があってもゼロ扱いするという。
政府は十六日に「冷温停止状態」を宣言する予定だが、重要な条件である放射性
物質の放出抑制をないがしろにするような姿勢は疑念を持たれる。


 原子炉等規制法により、電力事業者は、原発ごとに海に出る放射性物質の
上限量を定めるよう決められている(総量規制)。福島第一の場合、セシウムなどは
年間二二〇〇億ベクレルで、年度が変わるとゼロから計算される。


 しかし、四月二日に2号機取水口近くで高濃度汚染水が漏出しているのが
見つかり、同四日には汚染水の保管場所を確保するため、東京電力は建屋内の
タンクに入っていた低濃度汚染水を意図的に海洋に放出した。

 これら二件の漏出と放出だけで、原発外に出た放射性物質の総量は四七〇〇
兆ベクレル(東電の試算)に達し、既に上限値の二万倍を超える。

 試算に対しては、国内外の研究機関から「過小評価」との異論も出ている。


 今月四日には、処理済みの汚染水を蒸発濃縮させる装置から、二六〇億ベクレ
ルの放射性ストロンチウムを含む水が海に漏れ出した。

 さらには、敷地内に設置した処理水タンクが来年前半にも満杯になる見込み。
この水にもストロンチウムが含まれている。東電はできるだけ浄化して海洋放出する
ことを検討している。漁業団体の抗議を受け、当面は放出を見送る方針だ。


 保安院は本紙の取材に対し、事故への対応が最優先で、福島第一は損傷で
漏出を止められる状態にない「緊急事態」だった点を強調し、総量規制を適用せず、
四七〇〇兆ベクレルの漏出をゼロ扱いする理由を説明した。


 「緊急事態」に伴う特例扱いは「事故収束まで」続くとも説明したが、具体的な期間は
「これからの議論」とあいまい。

 今後、仮に放射性物質を含んだ処理水を放出したとしても、ゼロ扱いを続けるという。


(東京新聞)


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2011年12月14日

【原発】「6割が1mSV未満」か「4割が1mSv超え」か

今頃になって、原発の本を読み漁っていますが、これまで自分の無知、無関心、
無責任ぶりをつくづく感じています。
その結果として
、今の「福島」もあるんだと思うと、本当に申し訳ない限りです
なので、「原発問題を考える」カテゴリを追加しました。

これまでの私の感覚では「危ないんじゃないかな。大丈夫なのかな
でも、自分ではどうすることもできないし…。」という感じで、
深く知ろうとまでは
していませんでした。
すでに知ってた人は知っていたのかもしれません。
ですが、恥ずべ
きことに私は知ろうともしませんでした。

... 「想定外」と「想定しない」のとは違うと思います。
地震大国日本にあって、今回の事故は「想定内」の出来事でした。
震災前から警鐘を鳴らしていた人たちは大勢います。結果、その通りになっているのです。
もし「想定しない」のであれば、国や東電と同じです。
私にもその
責任の一端があると思っています。

原発は、現状、国のエネルギー対策として予算が投入されて行われています。
つまり、国が原発を止めない限り、下々の機関では、止まりません

もちろん、国民を危険にさらすわけにはいけませんから、「原発は安全」でなくてはなりません。
国の機関は「原発の安全」を確立するのが仕事です。その受注先の電力会社しかりです。
学者たちも、自分他の研究成果を実現させよ
うとしているわけですから、しきりに「安全」を説きます。
ここが味噌です。
決して「原発が安全」なのではなく、たとえどんなに危険をはらんでいても、
あくまで「原発は安全」でなくてはならないのです。
結果として「福島」では事故が起こり、「想定外」の被害が起きたわけです。

ですが、マスコミも発言をそのまま流してしまっていますので、情報を受け止める側には
注意が必要です。「ものは言いよう」なので
す。

13日の福島県による3月から4か月間の被ばく量調査のニュースの見出しです。

「一般住民最高は14.5ミリ=6割が1ミリシーベルト未満」
「外部被曝、97%が5ミリSv未満…福島県調査」
「【原発】福島で被ばく線量調査 4割が1mSv超え」

どれも同じニュースソースです。
「6割が1ミリシーベルト未満」と聞くのと、「4割が1ミリシーベルト超え」と聞くのとでは、
その違いってありますよね?
ちなみに「1ミリシーベルト未満 62.8%」というのが福島県の発表、そのままの表現でした。

でも、注意してください。
これは「4か月」の「外部被ばく量」の計算で、「内部被ばく」は計算されていません。
一般人の被ばく許容量は、従来1年間で1ミリシ
ーベルトと言われています。
4か月の間に、外部被ばくだけで、対象者の4割が、1ミリシーベルトを超える被曝が
起きているということなのです。
福島では震災から9か月経っても、今でも1時間で1〜2マイクロシーベルト、
年間で1〜2ミリシーベルトになる放射線数値を出し
ています。

しかも、外部被ばくのみの数値だけを見て「この数値では健康に影響は少ない」とか、
「100ミリシーベルト以下では健康被害は立
証できない」というコメントにも驚きです。
これほど根拠のない、
無責任なコメントもありません。

繰り返しますが、今回の調査は「4か月」の「外部被ばく」のみの数値です。
「内部被ばく」は計算されていません。
将来的には、内部被ばくの影響の方が大きいことはチェルノブイリの実例でわかって
います。5年、10年後に結果が出てくるでしょ
う。

外部被ばくが大きいということは、その分、放射性物質を吸い込み、内部被ばく
している可能性も高いということです。
これがよく言
われる「ただちに健康に影響するものではない」という真意でしょう。

これで「外部被曝、97%が5ミリSv未満」という見出しが、まったくナンセンスで
あることは、すぐわかってもらえると思います

あたかも「安心」を誘導しているかのような表現です。
なぜでしょう。。。日本には、原発を継続したい人もいるんです。
報道機関が決して客観的事実のみを伝えているとは限らないんです
でも知らなければ、「ああ、被害が少なくて、よかったね」にもなってしまいかねません。

もしかすると、不安を煽るように聞こえてしまうのかもしれません
でも、これで「安心」してしまえば、本当に被害にあった「福島」の方々への補償は
どうなるでしょう。「立証できない」と軽く見ら
れてしまいかねません。
曖昧な「安心」「安全」の名のもとに、危
険な原発も再開されてしまいます。
しかし、正確な情報がきちんと流れれば、対策も可能です。

ちなみに、放射線量よりも放射性物質が問題です。
内部被ばく、放射性物質を吸い込むことを防ぐには、インフルエンザ対策用の
マスクが一番です。一番危険なプルトニウムの粒子はウ
イルスより若干大きい
ので、吸い込むことを防げます。

まずは、正しく知ることからです。
本当の意味で「福島」を助けることができるのも、危険な原発を止められるのも、
電力会社ではなく、私たち国民の声であると思うの
です。

▼福島県「福島県県民健康管理調査」平成22年12月13日
http://www.pref.fukushima.jp/imu/kenkoukanri/231213gaiyo.pdf

ラベル:原発 東北支援
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2011年12月12日

「王として生まれたキリスト」ヨハネ18:33〜40

2011年12月11日 キリスト教会「石巻祈りの家」

石巻祈りの家 石巻祈りの家
 (個人宅で行われている正真正銘アットホームな家の教会です。)

 みなさん、おはようございます。
 今日はお招きいただいて、ありがとうございます。千葉、市川から帰ってきました竹下 力です。

 さて教会の暦では、クリスマスを前にして、アドベント、まさに救い主がお生まれになるのを
待ち望む時期にあたるわけですが、私たちは一体どんな救い主を待ち望んでいるのだろう、
クリスマスには何を喜び、何を祝おうとしているのか…って考える時なわけです。

 …と言いながら、今日の箇所は、クリスマスとは全くかけ離れた、イエス様が十字架に
着けられる直前、ピラトの裁判のシーンだったりするんですが、私たちは、幸いなことに、
イエス・キリストがどういうお方であるか、イエス様がお生まれになった後の出来事、
その生涯全体をよく見て、そのイエスが、神の子、救い主かどうか、じっくり判断することが
できるわけですよね。
 その上で、イエス様を救い主としてお迎えし、イエス様がお生まれになったことも祝う。
 これが私たちにとってのクリスマスです。

 しかし、当時のユダヤ人たちは、歴史の順番通りにしか見ることが出来ないわけです。
つまり、救い主が実際どんなお方で、どんな風に救いをもたらしてくれるのか、見ることなく
待ち望み、そして迎えることになるわけです。その違いって、あるような気がします。

 この裁判では、「ユダヤ人の王」ということが焦点になっているわけですが、ユダヤ人たちは、
王と名乗るこのイエスという男を死刑にしろというわけです。
 ところが、このピラトはローマ総督ですから、なぜ死刑にしなくてはならないのか、まるで
見当もつかないわけです。

18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸にはいって、イエスを呼んで言った。
     「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」
18:34 イエスは答えられた。
     「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、
      あなたにわたしのことを話したのですか。」
18:35 ピラトは答えた。
     「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、
      あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」

もし、例えば私がですね「私は王だ」と名乗ったとしても、「お前は馬鹿か」で終わるじゃないですか。
例えば、政治的なテロでも起したなら別ですが、ただ単に、自分は王だと名乗っただけなら、
死刑にまではならないですよね。

今、ピラトの目の前にいるイエスという男は、縛られて、なんら抵抗するわけでもない、
ローマを冒涜したわけでも、政治的な活動をしてきたわけでもない、
たとえローマに刃向かったとしても、ローマの軍隊にかなうわけがない。

なぜユダヤ人たちが、これほどまでにイエスを十字架刑にしろというのか、その理由が
わからないんですね。私たちにも、わからないところがあるのかもしれません。
 
そこで、ユダヤ人たちにとっての「王としての救い主」とは、どんな意味を持つのか、
まずは歴史の順番どおりに、少し見ていきたいと思います。

イザヤ書 9:6
 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
 主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

これを預言したイザヤは、実にイエス・キリストの誕生から700年以上前に活躍した預言者です。
イスラエル自体もともと小さな国なのですが、それが南北に別れてしまい、外国の脅威に
さらされていたですね。その時に、救い主の誕生が預言されたのです。

それから700年という間、彼らは、救い主を待ち続けることになるわけです。
 
クリスマスまで、あと700年。待てますか?
誰も待てん…というか、誰も生きていません。
それどころか、ただ「700年」といわれても、あまりピンと来ないまま、話が流れてしまうと思うんですね。

今から700年前というと…、西暦1300年、日本でいえば鎌倉時代の末期になります。
1333年に鎌倉幕府が倒れて、足利尊氏によって室町幕府が建てられたわけですね。
それから戦国時代、織田、豊臣、そして徳川によって江戸幕府…
ちょうど今年はNHKの大河ドラマで「江」がやっていましたけど、その江戸時代が15代、
260年続いた後に大政奉還、明治、大正、昭和、平成へと…気が遠くなりそうですが、
これが700年という時です。

その700年間、何世代にも渡って、いつ来るかもわからないまま救い主を、ずーっと
待ち続けていたわけですよ。

イスラエルは、イザヤが預言してから間もなく、まず北のイスラエル王国がアッシリア
という国によって滅ぼされます。
その後、新バビロニアによって南のユダ王国も滅ぼされ、バビロン捕囚、外国に囚われの
身になったこともありました。
その後もペルシア、ローマ帝国と、常に外国の脅威にさらされて、ほぼその支配下に
あったわけです。


彼らは、周辺諸国と戦って、イスラエルの独立を果たしてくれる王としての救い主、
まさにイスラエルにとっての「平和の君」が現れるのを、ずーっと待ち続けていたわけです。

 実にイエス様の弟子たちも、またそうだったんですね。
 彼らもまたイエス様がイスラエルの独立を果たしてくれると信じていたんです。
使徒の働きの1章を見てもわかります。

使徒1:6 「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」

十字架、復活の後も彼らは、イスラエルの独立を求めていたのです。

一方で、ユダヤ人の中には、王としての救い主が来られては困る人たちもいました。

まず、その一人はヘロデ大王です。
もし自分以外に王がいるなら、彼にとっては自分の座を奪う敵ですよね。
実際に、彼は、東方の博士から「ユダヤ人の王が生まれた」という話を聞いて、
2歳以下の男の子を皆殺しにしています。

そして、もう一人は実質的な政治を行っていた大祭司をはじめとする祭司たちです。
彼らは、群集がイエスのことを、待ち望んでいた救い主だと信じて、暴動が起きることを
何よりも恐れていました。
もしそうなればローマが黙っていない。本当に、イスラエルは潰されてしまう。
彼らは彼らなりに、イスラエルの国のことを考えていたんですね。
彼らは、イエスの人気や力も知っていましたから、それだけにイエスを非常に危険視したわけです。
そして、ついにイエスを捕らえて、ローマの手に引き渡すことができたわけです。

さて、あとは群衆たちですよね。
皆さん、どうでしょう…。
よく群集たちが、あれだけイエス様を大歓迎してエルサレムに迎え入れておきながら、
1週間も経たないうちに十字架につけろと叫ぶようになったのか…。
疑問としてあがるところだと思うんですよね。

でも、今の日本、まさに、これと同じだとおもうんです。内閣支持率なんてそうでしょ。
民主党政権になりました。それまでは、わっーと盛り上がっていたと思えば、批難の嵐です。
子ども手当て一つだけみて、政権や内閣の是非って問えますか。
野田内閣になって、また少し盛り上がったかと思えば、引いていくわけですよね。

まして、神様から約束された「王なる救い主」のはずが、今、まさに敵国ローマの手によって
捉えられている、もし、その姿を見たとしたなら、皆さんなら、どう思いますか…。

私なら、がっかりするというか、正直、偽者だと思ってしまうと思う。
だから、あれほど集まっていた大勢の群集たちも、みな一斉に引いていったわけです。
それどころか、期待が大きい分、何だ、偽者じゃないか、十字架につけろと叫ぶようにもなったのです。

日本は、いまだかつて世界地図の上からなくなったことのない国ですから、その心情は理解し
得ない部分もあるかもしれません。
でも、ユダヤ人にとっての「王としての救い主」というのは、それは待ち続けた700年という時の
重さでもあったわけです。

一方、イエス様の方です。
18:36 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。
     もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、
     戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

イエス様は、実際に、この世の国のこと、政治的活動をしてきたわけではありません。
イスラエルという国を守ろうとするとき、そこには必ず戦いがある。それは旧約聖書の歴史が嫌というほど物語っていることです。
イエス様は、そういったこの世の国と国の壁、民族、部族を越えた、神の国へと招こうとしていたんですね。

イエス様が、捕らえられるときにも、弟子の一人が剣をとったわけですが、「剣を持つものは、みな剣で滅びる。」
イエス様はすぐにやめさせました。神の国は、そうやって勝ち取るものではなかったからです。

18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」
     イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。
     わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。
     真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。

イエス様は、これまでご自身のことを「王」として公に語ったことはありません。
むしろ、弟子たちに救い主であることを隠すようにも言われて来たほどです。

ところが、この裁判の席上では、公に自らを「王」として名乗ります。
まして、この状況、場面で公にすることは、必然的に十字架を意味していたわけです。
でも、その死を目の前にした場面で、イエス・キリストはこう語るわけです。

わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。

ピラトには、まるで、その真理が死をもたらすかのような、死ぬために生まれてきたかのように
聞こえたかと思います。

ピラトは言います。「真理とは何か。」

真理とは何でしょう。皆さんなら、なんて答えますか。「真理とは何か。」


真理にも、いろいろあると思いますが、この時、この場面で言われるところの真理とは何か…。
岩波国語辞典によれば、真理とは、本当のこと、間違いでない道理、正当な知識内容だそうです。

たとえば、もし本気で平和を実現しようとするならば、それは単純に、せーので、武器を捨てる
ほか道はない。平たく言えば、愛し合うということ。これも一つの真理だと思います。

でも、人間は武器を持ってしまう。必ず武器を使ってしまう人間がいる。
これも真理といえば真理でしょう。

武器をとり、それを使う人間がいる中で、武器を持たないということは、まさに命がけです。
平和を願いながら、やはり武器を取ってしまう。あるいは、武器を持たせてしまう。
これもまた、私たち人間のもつ真理なのかもしれません。

しかし、武器を持って戦わせるのではなく、国民を救うために、王自らが命を捨てる。
普通は、王を守るために、国民が戦います。王が死ぬとき、その国家は敗北です。
かつてのイスラエルもそうでした。王が死んでは、一見すると、無意味のような気がします。
あり得ない。
しかし、それが、平和への道だとしたら…。

王自らが、十字架で命を捨てる代わりに、イスラエルも、ローマも、日本も、あらゆる国民を
神の国へと招き入れる。
これが、「王」であり「救い主」としての使命、生きる道であり、真理だったのではないでしょうか。

この後、19章のところを見ると…
19:5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。
するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。

「さあ、この人です。」と訳されていますが、昔の訳では、「この人を見よ」。

やや差別的な言葉が使われていて、ピラトにしてみれば、この無力で哀れな男を見てみろ、
これでも死刑を望むのか…そういう意味で、言ったと思います。

ピラトにしてみれば、バラバの方が、よっぽど危険人物に見えたに違いありません。

このバラバこそ、強盗と書かれていますが、ローマからの独立を目指して、取税人や
ローマの兵隊を襲って強盗働く革命家、つまり自称「救い主」の一人ではなかったかと
言われています。
当時、そうやって本当にテロ的な活動をして、十字架刑に処せられていた人たちも多くいたんです。

ですが、先ほども言いましたが、イエス様は政治的な活動をしてきたわけではありません。

この人を見よ…!! 

しかし、この時のユダヤ人たちには、イエスの方が、神の名を語る偽者のように見えてしまったのです。

十字架の死というと、なんとなく気分も重たくなると思うんですね。
ですが、イエス様は、決して、死ぬために生まれてきたわけではないと思うんです。
この場面で、十字架を背負ってしまう、それがイエスという男ではないでしょうか。

わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。

イエス様の罪状書きは、「ユダヤ人の王」
十字架に釘打たれる中、こう叫びます。
「父よかれらをお赦しください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです。」

少なくとも彼は、あらゆる国民を守るため、王自らが命を捨てる。
それはユダヤ人に限らず、私たち人間が誰しも抱えている咎、エゴ、罪がもたらした
結果かもしれません。
イエス・キリストは、私たちの「罪」のために十字架につけられたというのは、
ありがたい救いの教えではなく、歴史的な事実です。
その十字架を背負い、最後の最後まで「王なる救い主」として生きたんですよね。

今日の交読文、イザヤ53章を選ばせていただきましたが、まさにイエス・キリストの
預言と言われている箇所です。その中にこう出てきます。

イザヤ53:11
 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
 わたしの正しいしもべは、
 その知識によって多くの人を義とし、
 彼らの咎を彼がになう…。

これが神の御心であり、王としての姿。この「受難のしもべ」とも呼ばれるお方を
「王なる救い主」として迎えるとき、イエス様も喜んで私たちの王として、私たちを
神の国の一員として迎え入れてくださるんですよね。

この人を見よ。
この人を見たとき、何を感じ、どこに真理を見出すか。

哀れな人だと見るか、ただの馬鹿だと見るか、それともこの方こそ神の子、
王なる救い主と見るのか。それは、もう人それぞれだと思います。

この時、多くのユダヤ人たちは、イエス様を救い主としては認めることができず、
その後も救い主を待ち続けることになりました。

このあと、イスラエルは、ローマによって滅ぼされ、それから、さらに1900年の間、
差別や迫害も受けながら、ただ救い主を待ち望み、その信仰のみで、ユダヤ人と
しての自分たちを守ってきた民族です。

今でこそ、彼らは国家を持ち、軍隊も持っています。
ユダヤ人にもいろいろいるわけですが、でも敬虔なユダヤ教徒たちの中には、
今のイスラエルは人の力、暴力によるもので、神のイスラエルではないと言う人もいるんですね。
彼らは、まさに今もなお「王としての救い主」、平和の君を待ち望んでいるわけです。


さて、私たちは、今、どんな救い主を待ち望んでいるでしょうか。
救い主に、どんな期待を持って待ち望んでいるでしょうか。。。

誰しもが家内安全、商売繁盛、健康で、いつまでも幸せを願うと思います。

ところが人生、山あり、谷ありです。決して順風満帆ばかりではありません。
特に今回の震災では、皆さん、本当に多くの悲しみ、痛み、苦しみを負って
こられたかと思います。
正直、救い主、神様がいるなら、なぜ?と思うこともあると思います。

しかし、イエスキリストは、私たちの貧しさの中へ、悲しみの中へ、
その痛みの中に来てくださるお方です。

 イザヤ53:3 彼は、悲しみの人で病を知っていた…。

2000年前、イエス・キリストは、貧しい大工の家庭の子供として、馬小屋で生まれました。
私たちと同じように、何も出来ない、赤ちゃんとして生まれたんですね。
何も出来ないどころか、世話をしなければ、生きていけないんですよ。

それが、世界で最初のクリスマス。これが「王として来られた救い主」の姿です。

ですが、馬小屋だったからこそ、野にいた羊飼いたちも、救い主のもとに駆けつけることができました。
あたたかな布団はなくても、マリアとヨセフがいて、愛とぬくもりがあったと思います。
貧しいかもしれないけれども、そこには確かに「平和」があったのではないでしょうか…。

そんな王としての神のひとり子、イエス様をお迎えするクリスマスになったらいいですね。

イザヤ 9:6
  ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
  主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。


 

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2011年12月09日

「反原発」より「脱原発」

昨日、家の鍵を忘れてしまい、夜11時まで奥様の帰りを待つことに…(笑)

その間、本屋で、原発関係の本を買いあさっていたのですが、奥様から一言。。
「変な方向に走らないでよ〜」

... ま、確かに。。。
こんなネタを書くと、そう思われてしまうこともあるかな〜とも思います。
でも、プラカードもって、「原発反対!」とデモするつも
りはありませんので。。。(^_^;)

「反原発」よりも、まさに「脱原発」なんです。
正直に言えば、「電気」だけではなく、間接的にでも「原発」に纏わる様々な事業、援助、
恩恵を受けて、生活している方もいるだろ
うと思います。
実際に私たちも、巡り巡って、どこかでは恩恵を受けているはずです。

でも、その「原発」がいかに危険なもので、本当に「原発はいらない」んだってことを
なるべく多くの人たちに理解してもらう必要が
あると思っています。

なにはともあれ、まずは正しく知ることから。。。
その次に、何ができるかです。
ただ反対、ただ否定しても、何も生み出さないですもんね。。。(^_^;)

原発のことを知れば知るほど、福島を知れば知るほど、それが急務ということもわかってもらえると思います。

今、関東で、放射線量が上がった下がったやっているのは、かわいいものです。
福島は、それよりもっと生活の根底が覆されてしまったわけですよね。
農林水産業は現実的には難しいでしょう。
福島の土、全部入れ替えますか?海水取り替えてみますか?無理なんです。

私の母は、16歳の時、広島で被爆しています。
爆心地から1.5km、もちろん急性放射線障害は患いました。なので私は被爆2世なんですね。
それから15年後、姉が生まれた時、第一声はなんだったと思いますか?
普通なら、男の子か、女の子か、元気で生まれたか…が気になると思います。
でも、母は叔母にこう尋ねたそうです。

「指、何本あるか」

これが被爆者の恐怖なんですね。
さらに、13年後、私が生まれた時も、母は同じ思いを抱えながら産んでくれたわけです。
その息子が黙っているわけにはいかないで
すよね。

同じ、いや、もしかしたら、それ以上のことを、被爆国であるはずの日本が、自らの手で
起こしてしまったんですよね。それが「福島
」です。

事故が起きてから「想定外」は、なしこです。
日本は地震でできた国。全国どこてでも大地震は起こります。

これまで原発は、国のエネルギー政策として、国が多額のお金を注ぎ込んで、行なわれています。
それにも隠された訳があるのですが、それはそれとして、国の各機関は、地震を想定してしまうと
「原発」は作れなくなるので、「想
定しない」んです。
いや、わかっても、いかに「安全」かを説くの
が仕事なので、「危険性」は見て見ぬふりをせざるを得ないのです

今、東海大地震が起きたら、停止中の浜岡も福島と同じ危機に陥ります。
駿河湾に突き出した御前崎の隣にある浜岡原発が今回の事故を起こせば、海風と黒潮にのって
駿河湾沿岸部は放射性物質で汚染される
でしょう。
東海道は分断、風向きによって、関東、関西へも広がります。

あ、ちなみに、私の実家は静岡です。
今まではこんなところに原発があって大丈夫なんかな〜とは思いながらも、どこか我関せずで、見過ごしてきました。

いくら「岩盤の上にある」と言われても、その岩盤が乗っかっている直下のプレートごと
跳ね上がるのが東海大地震なんで無茶なんで
す。。。(T_T)
普通に考えて、プールの冷却水は跳ね上がります。
実際に新潟の地震で柏崎では起きていて、区域外に汚染水が流出していたようです。
地震で非常用電源が壊れない保証がどこにあるんでしょうか。。。
離れた場所に電源車用意していても、道路も壊滅するんで、きっと動けないでしょう。。。(-_-;)

全部、想定できる話ですし、実はこれまでも危機的な状況を現場の作業員が被爆覚悟で
守っていただけで、今回の事故も「想定内」な
のです。

なので、国の法律では、しっかり大都市の近くには原発は建設できないようになっているというわけです。

ちなみに昨日買った本は、まんま「原発はいらない」(小出浩章著)、京大原子炉研究所の助教の方が書いた本でした。


そのままだと、わけわからんで終わってしまうと思うので、なるべ
くわかりやすく伝えていければと思います。
ぜひぜひお付き合いくださいませ。。。<m(__)m>

逆に、もし、何か情報があれば、ぜひ教えてくださいね。(^^)


ラベル:原発 被爆 浜岡 福島
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2011年12月08日

「原発はいらない」意思表示を

12/3、4、竹下 力と静で、南相馬の原町聖書教会へコンサートと、
アドベント賛美礼拝で説教&賛美の奉仕に行ってきました。

放射線物質による影響で、人口は半分以下、復興も儘なりません。
ですが、その地でも懸命に生活されている皆さんの姿が、印象的でした。

原町聖書教会 (南相馬・原町聖書教会にて)

先日、福島県知事が原発全廃を復興計画にいれることを表明しましたが、
原発事故を防ぐには、津波の防護壁や電源車を作ることでも、
国や電力会社を非難することでもなく、国民一人一人が関心を持って、
しっかりと「原発はいらない」と意思表示をしていくことだと思います。

東京都と大阪市では国民投票を求める署名運動も始まっています。

http://www.chikyumura.org/earthquake/2011/post-115.html

原発について、下にまとめてみたので、ぜひ一読してみてください。

■原発について、知ってもらいたいこと…

これまで原発は誰しもが危険性を感じながらも、「安全」「安価」「クリーン」なエネルギーか
のように謳われ、なんとなく見過ごしてきたと思います。
私自身もその一人です。ですので、私自身にも責任の一旦があると思っています。

しかし、地震大国日本に原発を作ること自体が、そもそも危険な行為なんですよね。
少なくとも福島第一の1号機は、津波による電源喪失の前に、最初の地震の衝撃で、
圧力容器への損傷が発生したのは確かです。
2号機、3号機も、フル稼働中に地震発生により急停止、冷却水を失った状態で、
さらに津波で非常用電源を失い、急激に温度上昇、炉心融解(メルトダウン)、
水素爆発を引き起こしていきました。

水素はメルトダウンによって発生するそうですが、当時発表はされなかったと
思います(その可能性を指摘した保安院の審議官は、即座に更迭されました)。

原発の発電量は30%と言われますが、この30%がなくても、30%足りなく
なるわけではなく、火力、水力の発電量だけで国内最大消費量は満たせる
計算なのです。
ここに地熱などの自然エネルギーを加えていけば、十分に賄えます。
ちなみに日本の原発は54基作られていますが、全発電能力の15%しか
使っていません(つまり、使わなくても電力は足りている状態でした)。

にもかかわらず、なぜ日本に原発が作られてきたのでしょう…。

これまで漠然と、水力、火力に変わる発電として、低コストで、環境を壊さない
原子力が使われてきたイメージがあったかと思います。
そのように、官民一丸となって啓蒙されてきたからです。

もちろん、このイメージは「フクシマ」で否定されました。
3月11日以後、ドイツ、スイス、イタリアをはじめ世界各国が次々と脱原発へと動き始めています。
にもかかわらず、日本はいまだに原発にこだわっているようです。

それは、なぜでしょう。。。

そもそも原子力は危険なものです。
だからこそ「安全」のために、保安院をはじめ19の機関が作られたわけです。

保安院だけでも、国の予算が年間376億円がつぎ込まれ、審議官の給与は
年間1600万円が支払われています。
また原子力安全委員会の委員には週1回、数時間の会合のために、
年間1650万円の給与が払われてきました。
もし自分が、これだけのお金がもらったら、正直、原発をやめられるでしょうか?

これら費用は経産省が出す原発のコストに含まれていません。
その他にも原発立地の地域への対策費が支出され、各種施設も建設されてきました。
ここにも多くの利権か絡んでいるはずです。

今回の震災や事故は「想定外」と言われていますが、地震による配管の欠損の可能性も、
電源喪失による危険性も、海外の原子力機関が指摘し、メーカーも認めていたものでした。
事前に警告があったにもかかわらず、原子力の「安全神話」を守らなくてはならない人
たちは、この「危険」を表沙汰にはできず、結果、事故も防げず、多くの放射性物質を巻き
続けているというわけです。

結果として、何より放射能汚染による汚染、周辺住民への被害、農林水産業に与えた
ダメージ、除染にかかる費用…。
お金の問題だけではなく、健康や生活の基盤が奪われてしまったわけです。

そもそも地震大国日本に、原発を作ることは自ら爆弾を抱えるようなものです。
原子力に頼らずとも、十分に電力はまかなえます。

原発のコストは、火力水力と比べて、決して安いものではありません。

原発も製造過程で多くのCO2を排出し、稼働すれば大量の熱を放出しています。
温暖化対策にもなりません。
まして、これだけ放射性物質を撒き散らしてしまった原発は、クリーンなエネルギーとは
言えないと思います。

それでも、日本に原発は必要でしょうか。。。。

震災後、浜岡を止め、「脱原発」を打ち出した管前総理は、急激に風当たりが強くなり、
辞任にまで追い込まれていきました。
もちろん、それだけが退陣の原因ではないかもしれませんが、「再生可能エネルギー
特別措置法案」は、最後の意地だったかもしれませんね。
野田総理になってから、原発視察に行った経産相が辞任に追い込まれて以後、
むしろ原発促進させようという構えになっています。

よろしければ、これらの話を分かち合ってください。
これは私たち国民一人一人の責任でもあると思うのです。

もし原発がいらないと思うのであれば、ぜひ皆さんなりの方法で「原発はいらない」と意思表明していただければと思います。


ラベル:原発 福島 南相馬
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2011年12月06日

「『今日』という日がクリスマス」ルカ2:8〜20 

2011年12月4日 原町聖書教会(南相馬市)

DSC00613.jpg 
(午後の歓談風景。礼拝も食卓を囲んで行なっております。)

みなさん。おはようございます。

今日はお招きいただいて、ありがとうございます。千葉、市川から帰ってきました竹下 力です。

前回7月にはじめてお邪魔させていただいたんですが、この教会は通称「ただいま」の教会ということで、
私も、すっかり気に入ってしまったんですよね。
そんなわけで、はじめましての方もいらっしゃるんですが、皆さん、ただいまーと挨拶させていただきます。

私たちの教会も元々家の教会なんですね。
ですから、元々は本当に家の食卓で礼拝をしていましたし、今は会堂も与えられたんですが、
やはり、その名残で今もテーブルを囲んで礼拝をしています。
今日は、一応、スーツを着ているんですが、普段、うちの教会で、こうしたお話をする時には
普段着でして、先生なんて呼ばれたことなどないんですよね。
「竹下君」や「竹ちゃん」、がんばって「力さん」ですから、みなさんも同じように呼んでいただ
ければと思います。


さてさて、今日は、クリスマスのお話をということだったので、クリスマスのお話をさせていた
だきたいと思っているのですが、クリスマスって…何の日でしょう?


12月25日と言うと、最近の子どもたちに聞けば、時にサンタクロースの誕生日…といわれて
しまう時もあるんですが、イエス・キリストの誕生「日」をお祝いしているのかというと、
それも違っていて、イエス様が、実際に12月25日に生まれたというわけでもないんですね。

これは後の時代に定めらたものでして、暇な人が聖書の細かな記事から計算していった時に、
9月か10月くらいじゃないかとも言われています。
なんだ、もう過ぎちゃったみたいな?
実際のところ、特定できないんですね。

では、誕生日でもないのに、何をお祝いしようとしているのだろう…、
クリスチャンは、一体、何を喜んでいるのだろう…、
今日はクリスマスの喜びについてご一緒に分かち合えたらと思うわけです。

2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。


世界で一番、最初のクリスマス、救い主誕生の第一報が届けられたのは、野にいた羊飼いでした。
ベツレヘムは標高700mくらいの丘陵地帯にある小さな村。しかも、その郊外の夜の野原です。
辺りはシーンと静まり返って物音一つしない、遠くの方では、狼が遠吠えしていて、その寂しさを
凌ぐために焚き火でもしていたかもしれません。

2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。
 「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

 「恐れることはない」って言われても、そんな、いきなり御使いだの天使だのが現れたら、そりゃ、
びっくりしますよね。
まあ正直、御使いなんて、いるんかいなーという話になるかもしれませんが、御使いでなければ、
彼らに誰も伝える人もいなかったかもしれません。


聖書で羊飼いというと、なんとなく、いいイメージがあると思います。
でも、当時のユダヤ社会で羊飼いといえば、身分も極めて低い仕事、どちらかといえば、羊飼い
同士で放牧する土地を争う、やくざまがいの部分もあったわけですね。
神様の教えを守らない世のならず者、神から離れ、神からも見放された者、そういう風にも見られていたんです。

誰からも愛されない、誰からも認められない、こんなに寂しいことはありません。
彼らは、焚き火でも温まることのない心の寒い夜にいたのかもしれません。
しかし、そんな彼らの元に、まず真っ先に、救い主の誕生の知らせは届けられたんですね。

2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
    この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。
    これが、あなたがたのためのしるしです。」


 こんな俺たちのところに、救いがやってきた。

 こんな俺たちのことでも、神様は愛してくれていた。


もう彼らは、喜び勇んでダビデの町、ベツレヘムへと向かったのです。

もしイエス様が、王や貴族の子供として宮殿か豪邸で生まれていたとしたなら、羊飼いたちは、
見ることも近寄ることも出来ない、ほど遠い存在でしかなかったと思います。

ごく普通の宿屋の部屋に泊まっていたとしても、家畜番をしていれば、当然、においもする
わけですよね。宿屋の主人に入れてもらえなかったかもしれないんです。

しかし、イエス様は、ナザレという田舎大工の夫婦の子供として、ただの赤ん坊として、
飼い葉おけ、馬小屋で生まれた。
だからこそ、羊飼いであっても、救い主に会うことが出来たんですね。

天使たちは賛美します。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

「御心にかなう人々」とはどんな人たちなんでしょう。
日本で、クリスチャンや教会というと、どうしても清く、正しく、美しい…、そういう美しい誤解があるように
思うんですね。

でも、私たちは、クリスチャンであっても、なくても、誰しも間違うこともあるし、失敗することもありますよね。
クリスチャンであっても、夫婦喧嘩の一つや二つ、三つや四つ、五つや六つ…、数え切れないくらいします。
私も平日は旅行会社で働いているわけですが、まあ仕事をしていれば、ストレスは溜まるし、
イライラすることもあるし、失敗すれば落ち込みもします。
クリスチャンであっても、病気にもなれば怪我もするし、人間関係で悩むこともあります。

それなのに、自分は正しい…と思い込んでみたり、言い訳をしてみたり、誤魔化そうとしたりもしてしまうんですよね。

とかく人間というのは、自分が正しいと思いたい…そんな性質があるように思う。
でも、自分は正しい、自分は間違っていない、そうお互いに言い合っては、争ってみたり、
時に人を殺してしまうことすらあるわけです。
実に、戦争と言うのも、お互いに自分たちは正しいと言い張って、起きるんですよね。

ですが冷静になって、本当の本当に自分が正しいのか、自分に過ちがないのかといえば、
決して、そうではないはずなのです。
もし絶対に正しいといえるとしたなら、それは神という存在だけでしょう。

「天に栄光、地には平和を」

神が正しく、自分には間違いがある。
もしお互いに、お互いにですよ「自分が間違っていました、ごめんなさい」と認め合うことが
出来たなら、夫婦喧嘩も戦争なんて起きないのかもしれませんよね。

確かにある瞬間、ある部分は正しいこともあるかもしれません。
でも、実際には、どこかで間違っている自分もいるはずなんですよね…。
隠しておきたい、いわば「闇」の自分かもしれません。

しかし、救い主は、この民全体のための、すばらしい喜びの知らせだったんです。
それは、清く正しく美しい人間のためでもなければ、立派で正しい人間のためでもない。
いや、むしろ、誰しもが抱えているはずの、間違う自分、誤ちを冒す自分、普段は隠している
闇の自分、人から見れば間違いだらけの自分のところにこそ、救い主はやってきたというのです。

こんな私のところにも、救いがやってきた。

こんな俺のことでも、神様は愛してくれていた。

これが、まさにクリスマスの喜びなんです。

ある殺人強盗で捕まった男が、十字架に釘つけられていました。
十字架というのは、世界で最も苦しい死刑です。それは自業自得とはいえ、まさに人生最悪の日。

でも、彼にとって特別だった事が一つあって、横に、あの救い主と呼ばれたイエスという男も
一緒に十字架につけられていたことでした。

もう、周りではローマの兵隊やら野次馬たちが野次を飛ばして、あざけっている中、
この強盗はこう思うんです。
「自分が十字架につけられたのは自業自得、でも、この人は何も悪いことなどしていない。」
そして、こう言うんです。

イエスよ、天国に行ったら、俺のことも思い出してほしい…。

すると、イエス様は彼にこう語りかけるんです。
「今日、あなたはわたしと一緒にパラダイス、天国に行く。」


こんな俺のところに、救いがやってきた。
こんな俺でも、イエスは愛してくれていた…。


彼にとって人生最後の最悪の日は、人生最初のクリスマスへと変わったのです。

イエス様は一番目に、「今日」、今日だと言いました。
どれだけ正しいことをしたか、どれだけ聖書読んだか、最低1年くらい教会に通ってからでもありません。
強盗であっても、今までどんな罪や傷があったとしても、「今日」、イエス・キリストを信じるなら、今日、救われます。

2番目に、「わたしと一緒だ。」そう言ったんです。
ただ単に「あなたは天国に行くよ」じゃないんですね。「わたしと一緒に、天国に行く。」
もし、イエス様がなんら苦しみを負わず、ただ十字架の下にいただけなら、
彼の心に、その声は届かなかったかもしれません。
でも「私が一緒だ。」イエス様も一緒に、同じ苦しみを負っている…。
だから、彼は十字架の苦しみの中にありながら、そこに慰めが与えられ、救いの希望まで
持つことが出来たんですね。

イエス様の弟子ヨハネは、イエスのことをこう表現しています。

 光は、闇の中で輝いている…。闇はこれに打ち勝たなかった。


皆さんにとっての、「闇」とは何でしょう…。


本当に人生は山あり谷ありです。
今までの人生の中にも、様々な傷、失敗、後悔…、それは「罪」と呼ばれるものかもしれません。
特に今回の震災では、皆さん、本当の本当に辛い思いもしていらっしゃると思います。
少しでも理解しようと、こうしてやって来たりもするんですが、でも、実際に生活しているわけでは
ないから、本当のところは、やっぱり理解しきれないんだと思うんです。

でも、イエス・キリストは違います。
その悲しみ、苦しみ、「闇」の中にこそ、イエスは来てくださるお方です。

たとえ一人孤独のうちに叫ばざるを得ない、そんな夜が来たとしても、
イエス・キリストは、あなたの傍にいて、私が一緒だ、俺はお前のことを愛しているよ…、
そう語りかけてくる、そういうお方です。

そんな救い主と出会うその日、その「今日」という日が、まさにクリスマス

 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。
 きょう、あなたはわたしと一緒にパラダイスに行く…。

こんな私のところに、救いがやってきた。
こんな私でも、イエス様は愛してくれていた。

私たちが、そんな救い主に出会うのは、夏の晴れ渡った青空の下というよりは、
やっぱり冬の寒い夜、暗い星空の下での出来事なのかもしれませんね。

…恐れることはありません。
 今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
 この方こそ主キリストです。

ラベル:クリスマス ルカ
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2011年11月17日

「神の家族である教会」エペソ 3:14〜21 

皆さん、おはようございます。

早いもので、11月、この会堂が出来てから、もう1年が経とうとしているんですね。
1年が早いのは、歳を取った証拠なのでしょうか。
すると、私より、もっと早く感じている方も、中にはいらっしゃるのかも!?しれませんね。。。


さて、先日は15周年のコンサートが催されましたが、15年前大竹家のまさに「家」でスタートした家の教会も、こうして会堂が与えられたわけです。
でも、会堂が与えられたから、「家の教会」ではなくなるのか…というと、それは違うように思うんですね。いや、もし違ってしまうとしたら、私にとって、非常に寂しいというか、残念なことだと思います。


この中には、すでにこの会堂が出来てから、いらっしゃっている方もいるわけですが、もはや「家」で礼拝しているわけでもないのに、「家の教会」になりうるのか…。
いや、私たちが「神の家族」であれば、ここの建物は「神の家」なんですよね。


この会堂を設計するときも、どこか「家」の雰囲気を残したいというのが、ほとんど皆さんの総意であったわけですけれども、私たちが「神の家族」であると言う意識がある時に、その家族が共に生活をする場所は、「会堂」というよりも、「家」と呼ぶ方が自然なのではないかなと思うんです。


今日の箇所は、パウロがエペソにある教会へ書き送っている手紙ですが、その中で、パウロが「祈り」を込めている箇所です。
それは、エペソ人への手紙全体を集約しているパウロの思いともいえるでしょうし、学問や神学を超えて、エペソの教会、さらにはキリストにある教会がこうであってほしい…というパウロの願い、すなわち祈りであると思うわけです。
今日はこの箇所から、私たちが、いかにして「神の家族」となり、それが「教会」であるということを、皆さんと一緒に再確認できたらな…と思うわけです。


3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。

さて、早速、「家族」と出てきましたが、2章では、「他国人でも寄留者でもなく…、神の家族」なんだということが出てきます。
その家族の名の元である「父」の前に祈るというわけです。

当然の話ながら、「父」と呼ばれるためには、「子」という存在も必要になるわけですよね。

例えば、私には、まだ子どもがいませんから、当然、私一人がどんなに頑張っても「父」にはなれないわけです。

はじめに「父」という存在があって、次に「子」があるようで、実は、「子」という存在があって、はじめて「父」にもなれるわけです。
つまり、父と子という存在は、どっちが後先ではなく、お互いに同時にはじまる関係です。

この「父」に対し、「子」といえば、まずイエス・キリストになるわけですよね。
もし父なる神がはじめから存在すれば、子なる神もはじめから存在しているということになります。私たちは、その子なるイエス・キリストと言う存在を通して、神様の事を「父」と呼ぶようにもなったわけです。


それが、まず「天にいます、私たちの父よ。」とはじまる主の祈りです。
イエス様は、こう祈るようにと教えられたわけです。
神様のことを「父」と呼ぶ、しかも、「お父様」とか「お父上」ではないんです。
「アバ」…小さい子どもが父親を呼ぶ呼び方、「パパ」「ちゃん」「おとう」こういう呼び方で、読んだんです。
これは当然、当時のユダヤ人にとって、許しがたいことであって、パーだの、ちゃんだの、もう許せん!まさに、ここにはイエス様の命も掛かっているわけですね。

そのイエス・キリストを信じる信仰のゆえに、私たちも神の子とされ、神様のことを「父」として知るようになったわけです。
そして、さらに、もうひとつ、聖霊という存在が登場してきます。


3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。


私たちは、御子イエス・キリストを通して、父なる神という存在も知り、神の子とされ、父に祈るということも知りえたわけですよね。
その父なる神は、どうするかというと、御霊、聖霊という存在を、私たちに送ってくださるというわけです。

さて、聖霊というと、正直な話、本当にいるんかな、よくわからないな…という方もいらっしゃると思うんですね。でも、わからなくてもいいと思うんです。
なぜならば、聖霊は、「わしが聖霊じゃ〜」というような、自己主張をせず、絶えず絶えずイエス様であり、父なる神を指し示します。

中には、聖霊の働きを強調する教会もありますが、聖霊の特殊な働きばかりが強調されすぎると、かえって聖霊の存在がわからなくなってしまう人もいるように思います。
実際、イエス様がなんと言っていっているかというと、「御霊はわたし(つまりイエス様)について教え、わたしについて証をする」、そう言っているんですよね。
また、ガラテヤ人への手紙などでは、『私たちは「アバ、父」と呼ぶ御子の御霊を受けた』とも言われているわけです。

3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。


この「こうして」というのは、まさに前節の御霊の働きでして、この御霊によって、御子イエス・キリストは、私たちのうちに語り掛け、ともに住んでくださり、だからこそ、私たちも「アバ父」、天のお父様と祈れるというわけですね。
私たちがイエス・キリストに心を傾け、「天の父よ」と祈る…、その時、その瞬間、これ自体が聖霊の働きに他ならないわけです。
まさに、「アバ、父」と呼ぶ御子の御霊です。

このように、父、子、聖霊…三位一体の神様が、働いてくださっているわけですが、これをはじめて聞けば、唯一の神といいながら3つの神様がいるかのように思うでしょうし、「3つだけど、一つじゃ」という、なんちゃあ、よう分からんゆう話にもなるんだと思います。


ここで、今日は、ちょっとだけ、三位一体についてお話しておきたいと思うわけですが、
私たちは「三位一体」、すなわち父なる神、子なる神、聖霊なる神がいて…三つで一つ、唯一の神だと考えると思います。これはローマ・カトリックから受け継いでいる考え方で、どちらかというと異邦人的な受け止め方なんです。

でも、西のローマに対し、東の東方正教会では、唯一の神の中には、父、子、聖霊…「三つある」という考え方があるんですね。

そもそもパウロをはじめ、ユダヤ人のクリスチャンにとってはどうだったんでしょうか。
彼らは、もともと唯一の神を信じているわけですね。最初に、唯一の神様がガツンと存在しているわけですよ。
そこに、イエス様が現れて、その唯一の神の中には、実は父という存在があり、子という存在、そして聖霊という存在がいるということが明らかになったわけです。神様ですので「人格」というとおかしいんですが、言うなれば、三つの神格が存在している。つまり、唯一の神様の中に父、子、聖霊…、三つがいる…こういう捉え方をします。

父だけでは存在しえないし、子なるイエス様だけ、また聖霊だけでも存在していないんです。どれか一つに偏ってもいけないし、どれか一つが欠けることもありえないんです。

父がいるなら、子もいる。さらに父と子の関係をつなぎ、さらには神と人とを繋ぐ聖霊の存在、この3つが全部が揃って唯一の神でありうるし、唯一の神の中に3つある。

私たちも、この父、子、聖霊…この3つが揃った唯一の神様の関係、交わりの中にすっぽり覆われるかのように、神の子として、受け入れられているわけです。

私たちが、もしお互い神の子どもであれば、その横の繋がりは兄弟姉妹、神の家族であるわけですよね。
これは決して、キリスト教の風習でも、誰かが言ったような「人類みな兄弟」的なスローガンのようなものではなくて、神様ご自身の性質、父と子、聖霊、3つが関係あるがゆえに、必然的に私たちも神の子、兄弟姉妹、神の家族となりうるわけです。


3:17 …また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。


私たち教会、神の家族の基盤は、愛だというわけです。
いつしか志保子さんも、組織としての教会と家族としての教会の違いについてお話してくれたことがありましたが、私たちが、一つ気をつけなくてはならないのは、教会を運営していく時に、ついつい会社組織の感覚で、物事を運んでしまうことかもしれません。
私もビジネスをしていますので、注意しなくてはならないんですが…。


教会にも会計や、様々な事務的なことも発生するわけですが、会社の基盤になっているのは、売上であり、利益です。そのために宣伝、営業もするわけですよね。同じ感覚が教会に入り込むと、献金が売上となり、奉仕は仕事、伝道が宣伝、営業となって、会員数獲得、成績が問われるようにもなるわけですよね。
人数が増えれば、自社ビルならぬ、会堂を建てて、「立派な教会ですね」と評価をうけたりするわけです。実際、こういう教会もあったりするわけですよ。
でも、これは会社的なあり方が、いつしか教会に持ち込まれてきた結果のように思います。


もし会社であれば、社員は、ある意味、やめてもいいんですよね。必要であれば、人員補充、代わりの人材を見つければいいのかもしれない。
でも、家族はそうではありません。家族の一人は、代わりになる人はいないんです。この人は、この人でしかない。これが家族ですよね。

愛に根ざし、愛に基礎を置くあなたがた…それは、私たちは神の家族であるからです。

一言で、「愛」というと、なんだかいいなあ…とも思うわけですが、この愛は人間の兄弟愛、家族愛をさらに超えて、キリストから来る、キリストの愛なんですよ。
自分が受ける愛ではなく、時に自分の命でさえも与える愛というわけです。

言うは安し、行なうは難し…、なかなか、できることではないですよね。
できること、できないことも、人それぞれ違うと思いますが、自分自身の事を思えば、よくわかると思います。はあ、足りないことだらけです。

自分がやるべきことに気づきもしない時もあれば、失敗することもある。そのくせ、人の足りないところにはカチンと来て、怒りの感情すら起きることもあるわけです。
実際にそういうこと、ありません? 実は、関係の近い家族であるほど、ありえますよね。

でも、家族であれば、そういうこともあってもいいんだと思うんです。
もちろん、いつもであっては困りますが、時にぶつかることがあっても、どこかで理解し、赦せるのも、「家族」という間柄だからではないでしょうか。

私の父親もご存知のとおり、癖のある男でしたから、散々ぶつかりましたけどね。完璧な親もいなければ、完璧な子どももいない。でも、反発して家を出たとしても、しゃあしゃあと戻ってきて、また一つ屋根の下で暮らしていけちゃうのも、家族ですよね。
もし会社であれば、クビかもしれないですよね。
実に、有名な放蕩息子のたとえ話がありますが、父なる神と私たちの関係も同じなのかもしれませんね。

また、愛だからと言って、なんでも、ただ与えればいいのか…、そんなこともありません。
実際に、家族、親子という関係で考えて見ると、よくわかると思います。
乳飲み子には、必要最大限のものを与えていくと思うんですね。しかし、ある年代からは、必要最小限を与えていくと思うんです。
なぜならば、いつまでも親の家にいて、親のすねをかじって、親に頼らなくては生きていけないようでは困るわけです。
その子も、自立していかなくてはならないからですよね。

でも、何から何まで子どもに我慢させればいいのかというと、そういうわけでもないですよね。
人を愛すると言うこと、人に与える心というのは、まず自分が受けることによって、学ぶようにも思うのです。


天のお父さん、父なる神も、必要な時に必要なだけ、必要最大限かつ必要最小限のものを私たちに与える神ではないでしょうか。

 ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。…実に、最大限に与える神です。

しかし、一方で、神様を信じれば、家内安全、商売繁盛、病気一つせず、至れり尽くせり、全てが順風満帆かというと、決してそうではない。
人それぞれ、人生の様々な悲しみや痛みを自分が受けることによって、人の悲しみや痛みを知るからこそ、人を愛することも学んでいくわけですよね。

そんなわけで、一言で「愛」と言っても、いろんな要素があると思います。今の私たち一人一人は、決して完璧ではないと思うんです。
それは、エペソの教会もそうでした。パウロ自身もそうでした。
ですが、お互い完璧ではないがゆえに、いや、自分の不完全さを知れば知るほど、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解するようになるのではないでしょうか。
それらを、全ての聖徒とともに…すなわち神の家族とともに、その横の繋がりの中で、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように…とパウロは祈るわけです。


3:19  こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。


ああ、どんどん、スケールが大きくなっていきますよね。

礼拝という時が、神と人との関係、イエス様を通し、聖霊の働きによって、父なる神様と神の子という関係を結ぶ時であるとするならば、礼拝後の食事の時は、今度は神を中心とした子と子の関係、兄弟姉妹、神の家族として関係を深める時であるはずです。

実に、聖望教会では、毎週、一緒に食事をする。
これは、実に大切なことで、聖書的でもあると思うんです。私たちが、家族であればです。イエス様も、その多くを食卓で語られたわけですよね。一緒に食事をしたんです。その中心が聖餐でもあるわけです。

私たちが週一回、集まったときには、一緒に食卓を囲む…これは、もし私たちが家族だとしたら、ごくごく自然なこと、当たり前のことなんですよね。


そこで、日常にあった様々なことを分かち合いながらも、神の家族としての関係を深め合っていくことによって、実は、父と子と聖霊…神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされていく…ということにもなっていくのではないでしょうか。


3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。


今日は、父と子と聖霊、この三位一体の神様によって、私たちも神の子どもとされていて、その子供同士は神の家族、礼拝後の食事も実は大切であって、家族であれば実は自然な姿なんだというお話をさせていただきました。


なぜ、聖望教会では、これらが、ごく自然とできてしまったのか。
それは、もちろん大竹ファミリーという実際の家族を中心に、本当の家で始まった教会で、しかも奥様、登巳子さんは料理の先生、得意中の得意だったということもあったかもしれないです。
でも、その背後には、やっぱり確実に父と子と聖霊、この三位一体の神様の働きがあったからではないでしょうか。だからこそ、私たちは神の家族になりうるわけです。

今日は、わがままを言って、礼拝の最後に頌栄、父、御子、御霊の三位一体の神様を、純粋かつ端的に褒め称える賛美を取り入れさせていただきました。
結婚式や葬儀の時には、歌われる賛美ですので、皆さんもご存知かと思います。
父・御子・御霊の大御神に〜という賛美です。


この歌、私が小さい頃は、わけもわからず、不思議な歌だったんですよね。
「ちち・みこ・みたまの・おおみかみ」ですよ。ひらがなで並べたら、なんちゃあ、わからん。でも、礼拝の最後になぜかお約束のように歌う、でも短いから好き、これで礼拝も終わるぜ…みたいな。
でも、決して、儀式でも、形式でも、おまじないでもないわけですよね。

今日は、ぜひ、この聖望教会という私たち神の家族と一緒にですね、父、子、聖霊なる三位一体の神が、この家族を15年間守り、そして、今も、とこしえまでも守ってくださるという感謝と祈りを込めて、厳かに、でも元気よく、心から賛美したいと思うわけです。

最後にもう一度、パウロの祈りをお読みしますので、一言一言、味わいながら、皆さんの祈りとしていただければと思います。

 …こういうわけで、私はひざをかがめて、
  天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
  どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、
  あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
   こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、
  あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

  また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
  すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
  人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
  こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

  どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて
  豊かに施すことのできる方に、
  教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。


愛する天のお父様、感謝します。
これまでの15年という時、三位一体、父・子・聖霊なる神様が、この聖望教会という神の家族を守り、養い育ててくださっていることを覚えて感謝します。
あなたが与えてくださったこの会堂も、私たちが神の家族としての関係を深めることによって、さらに神の家族の集まる家、神様、あなたご自身の家として、ますます用いられていきますように。
また、さらに、この先も、まさに、このパウロの祈りのように、私たち、神の家族の上にも、現実として、豊かに、あふれるばかりに、現されていきますように。

今週一週間、私たちのそれぞれの歩みがありますけれども、あなたがともにいて、守ってください。
そして、また来週、神の家族として、この家で集うことができまように、お祈りいたします。

愛する主イエス・キリストのお名前を通して、お祈りいたします。 アーメン。
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