2011年09月18日

「復興の中での戦い」ネヘミヤ記4:1〜23

(2011年9月11日 聖望キリスト教会)

みなさん。おはようございます。

今日は、9月11日です。
9月11日というと、まず思い起こされるのが、ちょうど10年前、
2001年のアメリカ同時多発テロかもしれませんが、それと同時に、
東日本の大震災が起きてからも6ヶ月、ちょうど半年が経ったところなんですよね。

今日は、まず7月に行った東北、復興に向かう石巻と、特に南相馬の様子もご覧いただこうと
考えているわけですが、南相馬というのは、地震、津波、原発…いわば、三重苦を負っている町です。
その光景というのは、まるで焼け野原、この土地のおばあさんからすると、「見たくない」光景なんです。

こうした戦争だの、地震だの…そういう話になると、聖書を読んでいる皆さんの頭にも、
ふと、よぎるのが、「世の終わり」ということかもしれません。
まさに津波に遭った地域の被害にあった人たちには、まさに「世の終わり」かのように感じた出来事で
あったかと思うんです。


ですが、みなさんにも、注意しておいてほしいのが、こうした出来事があったとしても、それが、聖書が
伝える「世の終わり」に直結しているのか…というと、必ずしも、そういうわけではないんですね。

確かに、マタイの福音書には、イエス様が世の終わりについて語られた箇所で、戦争や地震の話も出てきます。
ですが、それら災難が仮に起きたとしても、決して、終わりではない。
これらのことは必ず起こること、むしろ、そのために動揺しないように、人に惑わされないように、
偽預言者に気をつけなさい…そう聖書は告げているわけです。

世の終わりも多少は近づいているかもしれませんが、少なくとも、今、生きている。
まだ終わりではないから、復興もあるわけですよね。

この日本にいる以上、私たちにも、同じような地震、津波の被害にあう可能性はゼロではありません。
私たちも同じ災害に遭うことは十分ありえます。

今日は、ネヘミヤ記を選んでいますが、旧約聖書の中にあって、まさに復興の物語、歴史であるのが、
このネヘミヤ記です。
これから写真をご覧いただきますが、まずは、もし実際に、自分の身の回り、
もし、この市川で起きたら…というつもりでご覧になってもらえたら、いいのかなと思います。

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◎石巻 新館地区 (2011.7.17)

震災時、周辺住宅は家の1階部分は完全に浸水しました。
家の外観こそ無事のようにも見えますが、中はヘドロで住めない状態になっています。
こういった場所は、報道にも出てこない場所かもしれません。

石巻 新館地区

ここに震災直後から、「サマリタンズパース」という宣教師を中心とするボランティアスタッフや、
石巻祈りの家の阿部さんたちがボランティアとして、支援してきました。
当初は、この道もヘドロや瓦礫で埋まっていたそうです。それらを一から除去してきました。

石巻 ヘドロ被害の現状
家の内部の状況です。
7月の段階で、ようやく床下内部まで、ヘドロの除去が完了したところです。内装の作業はこれからという段階でした。
この家の家族は、昼間、復興の作業をし、夜は避難所で寝泊りする生活を続けています。

石巻 ヘドロ被害にあった畑 石巻 ヘドロ被害を受けた畑
この近くのヘドロを被った畑です。灰色の乾いてひび割れしている部分は全てヘドロです。

石巻 畑からヘドロの除去作業
石巻の祈りの家の阿部さんや、宣教師のボランティアチームが、ヘドロを丁寧に除去。
絶望にしか思えなかった畑の持ち主にとって、大きな励ましと、希望になっています。
(この写真のみ、後日撮影のものです)

石巻 復興支援野外コンサート
この日は、竹下 静の野外コンサートとカキ氷のパーティを。近隣の方々約90名が集ってくれました。

石巻 復興支援 カキ氷で
こうした人たちが集るのも、震災当初から、この地区でボランティアをしていた阿部さんたちの活動があればこそです。

◎南相馬 原町聖書教会訪問 (2011.7.20) ~原発から22Kmにある教会。今回、初訪問。

福島県南相馬市 原発20km地点 
原発から20Km地点。ここから先は立ち入り禁止です。
何もないのどかな農村地帯のようで、放射線という実に目に見えない被害を受けています。

南相馬 津波被害状況 南相馬 津波被害状況 南相馬 津波被害状況

海岸沿いに行くと、一見、見渡す限り何もない野原か畑の跡かのように見える地帯が広がっていました。
…が、南相馬は、古くからの漁村の町。このあたりにも漁業施設や民家があったんだそうです。
瓦礫が撤去され、雑草が生えていますが、津波で全てが流された跡なのです。

かつての南相馬を知らない私たちには、まったく想像もできません。

ですが、土地のおばあさんにとっては「見たくない」光景。戦後の焼け野原と同じ状態なのです。
特に南相馬は、原発の被害も受けて、復興作業も遅れている地域です。

南相馬 流された漁船 南相馬 流された漁船 南相馬 流された漁船
国道6号線近く。海岸線からは、だいぶ離れた場所です。
しかし、こうした漁船が、漁港から流されてきて、右に左に至るところで残されていました。
車と違い、こうした船の移動には重油を抜き、特殊車両で運ばなくてはならないため、費用がものすごく掛かってしまうんだそうです。

南相馬 原町聖書教会 南相馬 原町聖書教会
そんなところを通るとき、教会にたどり着くと、実感として、ものすごく、ほっとするんです。
原町聖書教会は10人足らずの教会です。ですが、どんなに小さくても、そこに教会がある存在意義を感じます。
ここにはぬくもりがあり、失望に終わらず、希望に満ちた笑顔と団欒がありました。

一言で「復興」といっても、それが、ものすごい気が遠くなるような、長い時間の掛かることであることがわかると思います。

しかも、ゼロからの新規開拓とは違う、「復興」というのは、今まであった多くのものが失われた失望感、
残骸が残る、まさにマイナスからのスタートなんです。

石巻でも、庭先に遺体が流されてたいたとか、自分の娘と孫が、この先の場所に流されていたとか、
その地に、悲しい記憶として、刻み込まれているのです。

私たちが支援しようとしているのは、こうした被災地で復興を目指す人たちの生活面だけではなく、
あらゆる失望にも負けない、あの笑顔でもあるような気がします。

画像 021-s.jpg 
(津波で会堂が全壊したシーサイドバイブルチャペル。現在、元喫茶店での活動展開中)

それが、この地での希望にもなるんですよね。


今日の聖書のネヘミヤ記というのも、まさに旧約聖書の中に出てくる復興の物語、その歴史です。
かつてイスラエル(南ユダ王国)が、新バビロニアに滅ぼされて、ユダヤの民はバビロニアに
強制連行されていたわけですが(いわゆるバビロン捕囚ですね)、やがてペルシャが起こり、
再びエルサレムへと帰ってきたわけです。

まず、神殿は再建されました。
ところが、その後70年経っても、エルサレムの城壁は崩れたままだったんです。

そこに起こされたのが、ネヘミヤです。

ネヘミヤももちろんユダヤ人ですが、この時、ペルシャ王に仕えていたわけですね。
ところが、ある時、エルサレムの城壁が崩れたままだと聞いて、ペルシャ王の許しを得て、
エルサレム復興のために派遣されてきました。

彼は、民たちと立ち上がり、エルサレムの城壁の再建に取り掛かったのが、この前の3章までの話です。


ところがネヘミヤたちが城壁の修復に着手して、面白くなかったのは、周辺の部族たちです。

イエス様のたとえ話に「良きサマリヤ人」が出てきますが、ここに出てくるサヌバラテというのが、
サマリヤ人の一人で、ユダヤ人にとって、まさに大嫌いなサマリヤ人の一人です。


4:1 サヌバラテは私たちが城壁を修復していることを聞くと、怒り、また非常に憤慨して、ユダヤ人たちをあざけった。
4:2 彼はその同胞と、サマリヤの有力者たちの前で言った。「この哀れなユダヤ人たちは、いったい何をしているのか。
  あれを修復して、いけにえをささげようとするのか。一日で仕上げようとするのか。
  焼けてしまった石をちりあくたの山から生き返らせようとするのか。」


私たちが、ゼロから何かを成し遂げようとする時にも、様々な障害があると思うのですが、その中で、
私たちが一番気をつけなければならないのは、「言葉」かもしれません。
その言葉によって、復興がすすむも、中座することもあるように思います。


野田新内閣になって早々、経済産業大臣の発言が問題になりましたよね。
今日のこのメッセージの原稿作っている間に、辞任してしまったんですが、残念なことに、
今の日本では、敵ではなく、同じ日本国内、同胞同士で、言葉の揚げ足取りをしているのが
現実かもしれません。

みなさんも、ニュースで「死の町」だとか「放射能つけたぞ」とか発言した問題をご覧に
なっていると思うのですが、どう思われたでしょうか。


その発言を取り上げた、毎日新聞の9月9日の報道です。

「鉢呂吉雄(はちろ よしお)経済産業相は9日の閣議後会見で、野田佳彦(のだ よしひこ)首相に
同行して8日に東京電力福島第1原発などを視察した際の印象について「残念ながら周辺市町村の
市街地は人っ子一人いない、まさに死の町という形でした」と述べた。」

「死の町」という言葉だけを取り上げてしまえば、ひどいとも思うのかもしれませんが、
皆さんは、今、南相馬の様子もご覧いただきましたよね。
あの先、20km圏内は、本当に誰も住めず、もっと、ひどい状態、一切、手が付けられない、
放置された状態のままですよ。

どう思いますか?

「残念ながら周辺市町村の市街地は人っ子一人いない、まさに死の町という形でした」
この言葉に何か周辺住民に対する悪意か、侮蔑か、否定的な要素があるでしょうか?
少なくとも、私には読み取れません。

原発の影響で、本当に誰も住めなくなって、放置されている現実があって、その原因である
放射性物質こそが問題なんですよね。
そのために、いまや本当に「死の町」、掛け値なしで、思わず、そう表現してしまうほど、
そこまで悲惨な状態になっているというわけですよ。

続けて、この記事には、こうあったんです。

「会見では、事故現場で収束作業に当たる作業員らについて『予想以上に前向きで明るく、
活力を持って取り組んでいる』と印象を語り、放射性物質の除染対策に関しては『政府として
全面的にバックアップしたい』とも述べた。」

同じ会見の場で、その「死の町」と化した現場を見てきた結果、除染対策を「全面的にバック
アップしたい」と発言しているんですよね。しかし、肝心のことは補足です。

次第に「死の町」というたった一言だけがピックアップされて、それを聴いた野党が非難し、
さらに、その部分だけが被災地にも伝えられ、がっかりしたようなコメントを拾ってくるわけですよね。
その対応に追われていく間に、放射能の対策も遅れていくことになるわけです。
そうしている間にも、本当に放射線の影響を少なからず受けていくわけですよね。

もちろん閣僚級の人は、そこまで言葉に注意しなくてはいけないのかもしれませんが、
そんな言葉の端々を、重大な問題かのように大きく偏って国民に伝えた結果、早々に辞任せざるを
得なくなったわけです。
せっかく現地にまで視察に行ったのにもかかわらず、これでまた一つ、復興対策は遅れたわけです。

これは政治家やマスコミだけの問題ではないですよ。
別に、民主党を擁護しようというわけでもないですし、時に、問題や過ちを指摘する必要もあるわけですが、
今、この日本が一番優先すべき事を忘れて、小さなことで非難、中傷して、全てを否定していってしまう、
それが、今の国民全体、日本の風潮だと思うのです。


試しに、2節のサマリヤ人の言葉の「ユダヤ人」を「民主党」に置き換えてみましょうか。

「この哀れな民主党は、いったい何をしているのか。
 あれを修復して、いけにえをささげようとするのか。
 一日で仕上げようとするのか。
 焼けてしまった石をちりあくたの山から生き返らせようとするのか。」


今のこの日本、どこからともなく聞こえてきそうな気がしませんか?
実に、リアルに伝わってくると思います。

今の日本の現実が、ここにあるような気がするんですよね。
しかも敵ではなく、同じ日本人同士がやっているんです。


「この哀れな日本は、いったい何をしているのか。」
「彼らの建て直している城壁なら、一匹の狐が上っても、その石垣をくずしてしまうだろう。」


まさに、本当に、その通りかもしれません。実際に敵がいれば、そう中傷されそうです。
でも、だとしたら、本当に悔しい話ですよね。まさに、ネヘミヤもそうでした。

ネヘミヤは、サマリヤ人や周辺部族に対して、猛然と抗議することも、戦うこともできたと思います。
しかし、ネヘミヤは、その悔しさ、怒りを、人にぶつけるのではなく、神へと訴えるわけです。


4:4 「お聞きください、私たちの神。私たちは軽蔑されています。彼らのそしりを彼らの頭に返し、
  彼らが捕囚の地でかすめ奪われるようにしてください。
4:5 彼らの咎を赦すことなく、彼らの罪を御前からぬぐい去らないでください。
  彼らは建て直す者たちを侮辱したからです。」


この祈りの言葉からして、ネヘミヤも相当、怒り心頭であることが分かると思います。
でも、ネヘミヤは、その悔しさを怒りで報いたり、敵と争うことをせずに、とにかく、そのままの
気持ちを神に祈り、復讐は神に任せたわけです。

なぜならば、彼がエルサレムに来た目的は、サマリヤ人と戦うことではなく、城壁を築くことだったからです。
彼は、祈る事で、本来、自分が成すべき目的を見失わなかったわけですよね。


今日の交読文、詩篇にもこんな言葉がありましたよね。

56:5 一日中、彼らは私のことばを痛めつけています。


私たちは、誰かが発する否定的な言葉や行動の影響を受けて、実に「わたしのことば」が痛んでしまう、
自分自身までが否定的な考えに巻き込まれていってしまうことがあるように思います。

それを気づかずにいると、売り言葉に買い言葉、言い争いになったり、今度は自分が発する否定的な
言葉によって、また他の誰かを痛めつけていたりすることもあるかもしれません。

私たちが復興を目指していくときに、本来、一番やるべき目的を見失わないために、まず自分自身が
否定的な考え、言葉から身を守るために、必要なのが、まず、祈りということでしょう。

4:6 こうして、私たちは城壁を建て直し、城壁はみな、その高さの半分まで継ぎ合わされた。民に働く気があったからである。

ネヘミヤは、神に祈ることによって、民の働く気をも守ったともいえるのではないでしょうか。

しかし、敵の誹謗中傷や攻撃が、それでやむわけではありません。
これだけやって、まだ半分の高さしか、築けないのか…
そんな言葉が、内から外から、聞こえてくる。そんな状態が続くわけです。


4:10 そのとき、ユダの人々は言った。
 「荷をになう者の力は衰えているのに、ちりあくたは山をなしている。私たちは城壁を築くことはできない。」

70年崩れたままの城壁が、なんと高さ半分まで継ぎ合わされたわけですよね。
これって、すごい話じゃないですか。いきなり100%の完璧や、完成もありえないわけですよね。
どんな事柄でも、一段、また一段と築き上げていくわけですよ。
ある人が10段積み上げた時、ある人はまた5段目かもしれない。
でも、5段目があるから、10段目もあるんですよね。
ところが、見方によっては、まだ半分の高さしか築けていないかのようにも、なってしまうわけです。


民は、目の前にある崩された現実と、非難する人たちの言葉や攻撃によって、
徐々に、前向きな気持ちや力も失っていったわけです。

仮に自分自身の言葉でも、こういったマイナス的な発言が、人々に、どんな影響を及ぼすかを、
私たちは自ら注意する必要もあるように思います。

さらに、言葉だけではなく、実際に陰謀や工作が企てられるようになります。


4:13 そこで私は、民をその家族ごとに、城壁のうしろの低い所の、空地に、
  剣や槍や弓を持たせて配置した。
4:14 私は彼らが恐れているのを見て立ち上がり、おもだった人々や、代表者たち、
  およびその他の人々に言った。
  「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、
  息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」

私たちが実際に剣を取って戦うことはないとは思いますが、否定的な言葉や思いと戦うすべ、
剣になるのが、まさに、神の言葉ではないでしょうか。

エペソ6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

皆さんが、聖書を読んでいくとき、好きな言葉、いいなと思う言葉、慰められたり、励まされたりする
言葉に出会うと思います。
そしたら、ぜひ、その言葉に赤線でも何でも引いて、どんどん蓄えるようにしてみてください。

自分や人の言葉と、神の言葉と、どちらが強いでしょうか…。
私たちがどんなに弱くても、その神の言葉が、私たちの心の内側にある言葉をも守ってくれるんですよね。


4:17 城壁を築く者たち、荷をかついで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていた。

とっくに神殿は再建させたにもかかわらず、70年間もの間、エルサレムの城壁は、復興されずにいました。
それは、なぜでしょう。
もちろん被害の大きさや、敵の妨害があったかもしれませんが、「神殿」という宗教的な空間だけで
神様を捉えて、市民の実生活、城壁には考えが及ばなかったのかもしれません。
しかし、神さまは、私たちの生活空間を守り、復興させる神さまでもあるんですよね。

私たち人間の側も、宗教的な行為だけで考える、反対に実生活だけを捉えて考えるのではなく、
片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握る、片方で生活面、片方で信仰面、
その両輪が必要なのかもしれません。

4:20 「どこででも、あなたがたが角笛の鳴るのを聞いたら、私たちのところに集まって来なさい。
  私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。」


私たちが、週に一度、集まる理由もここにあると思います。
もちろん私たちが礼拝することを、神様は喜んでくれると思います。
ですが、礼拝は、私たちが神様のために「守る」ものではなくて、
日常生活の中でも様々な問題や戦いがある中で、実は、神様が私たち自身を守るために、
教会という集まり、礼拝の時を与えてくれているのではないでしょうか。


それがゆえに、どんなに小さくても、被災地に教会があるということに希望がありますし、
ここにこそ、私たちが教会として、まず現地の教会を支援する理由もあるんです。

落ち込んだとき、苦しみのとき、一人では祈る気にもなれない、聖書を読む気にもなれない時でも、
教会に来さえすれば、誰かが祈り、主にある希望、御言葉も聞こえてくるわけですよね。

私たちにとっての角笛は賛美の歌声、私たちの神が私たちのために戦ってくださるわけです。


今回の地震や津波ばかりではありません。
私たちの人生の中でも、大波、小波、津波…、様々な困難が訪れることがあります。
その時、いろんなダメージ、心の傷を負うこともあるかもしれません。

そんな時、とかく否定的、悲観的な言葉が漂いがちですが、神に祈り、御言葉の剣を取り、共に集い
励まし合いながら、復興に向け、石を一つ一つ積み上げていきたいものですよね。

…どこででも、あなたがたが角笛の鳴るのを聞いたら、私たちのところに集まって来なさい。
 私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。

 

 


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2011年08月27日

「人と比較しない生き方」ルカ10:25〜42

(8/21 シャローム福音教会にて。「良きサマリア人のたとえ話」と「マルタとマリヤ」の話から ) 

みなさん。おはようございます。

うちの奥さんの歌どうですか?
身内なんで、あんまり褒めるのもどうかと思うんですが、なかなか、いいでしょ。
もっと、やればいいのに…と思うのですが、それはそれで、ご本人様のペースもございますので、
旦那の身分では、下手なことはいえないんですけれども、今日は午後、東北支援のための
チャリティーコンサートをさせていただくことになっておりますので、ぜひ、ご参加いただければと思います。

先週も福島、宮城で大きい地震もありましたが、特に津波があった地域では、ようやく瓦礫が
撤去されたばかり。本当の意味での復興は、まだまだ、これからなんですよね。

午後には、写真もお見せするつもりでおりますが、石巻では本当に市街地の奥深くまで津波の水が
入り込んできたんですよね。
ですから海から離れた、津波の直撃を受けていないような地域でも、床下やら家の内側には、
魚の腐ったようなヘドロがいっぱい入り込んでしまっているわけですよ。
それらを、ようやくきれいに片付けて、これから内装をリフォームさせていくという段階。
…といっても、業者にやってもらおうとすると、多額の費用がかかるわけですよね。
なので、昼は手作業で少しずつ修復して、夜は避難所へ戻るような生活をされている方も大勢います。

そういうわけで、まだまだ、これからです。それも地域全体を含めた、経済的な復興が必要です。
長い長い時間がかかります。

それに対して、私たちに何ができるのか…。
出来ることは、本当に極々わずかだと思います。
でも、自分に出来る、そのわずかなことをしていくことが、大切なんじゃないかなと思うわけです。


さて、今日は、「マルタとマリヤのエピソード」に焦点を当てていきたいと思うのですが、
その前の「良きサマリア人」のたとえ話から見ていきたいと思うんですよね。

…というのは、このサマリア人のたとえや、この10章、その前後一連の話は、イエス様が、
まだイスラエルの北部、ガリラヤ地方で活動していた時期の出来事が描かれているんです。

ところが、マルタとマリヤの住んでいた場所というのは、エルサレムの東側、約3qの
ベタニヤというところでして、あとオリーブ山を越せば、エルサレムというところなんですね。
おそらく、エルサレムへ入る直前の出来事、本来ならば、19章あたりで出てくるような話なのです。

つまり、ルカは、このサマリア人のたとえ話のあとに、あえて、このマルタとマリヤのエピソードを
挿入しているんです。

サマリア人のたとえでは、誰もが惚れ惚れするような、ある意味、理想的な愛の形が説かれている
かと思うんですね。
ところが、それが、私たちには理想で終わってしまいやすいんです。
ああ、いい話だな…、素晴らしい教えだな…、
子供相手だったら「良きサマリア人のようになりましょう」と教えられたとしてもですよ。

実際問題、自分自身はどうかといったら、あまりに理想的過ぎて、程遠い出来事のまま終わってしまいやすいのです。

しかし、ここに挿入されたマルタとマリヤのエピソードは、なんだか身に覚えがあるというか、
昨日か、おとついかにも見たような、私たちの間でも起きそうな非常に現実味のある出来事ですよね。

理想的な愛を、私たちの現実レベルにまで下げていった時に、私たちがどうあるべきなのか、
何を大切にしていくべきなのか、そのポイントを指し示してくれているような気がします。


そんなわけで、サマリア人のたとえ話から見ていきますね。

10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。
「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

同じ質問を、もし、私たちが答えるとしたら、なんですか。
もし誰かに、「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」と
質問されたとするならば、皆さんだったら、なんと答えるでしょうか。。。。

クリスチャンの皆さんなら、「ただ、イエス様を信じさえすれば、救われるんだよ」そう答えると思います。


しかし、ここでは、「イエスをためそうとして」でわかるように、この質問には罠があるんです。
もし、ここでイエス様が「わたしを信じなさい。そうすれば救われます。」なんて答えようもんなら、もう大変。
こいつは律法を無にしている、神を冒涜している…、お前は神なのか、即その場で捕まえて、石打ちにでも
されてしまいかねない、そういう話です。

でも、イエス様もそんなことは百も承知、千も承知でして、
「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」と、うまく切り返したわけです。


当然のことながら、彼は、律法の専門家ですので、律法的な答えを知っていたわけなんですよね。
仕方なく、答えるわけです。

「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
 また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」


これが、最も大切な戒め、イエス様自身も、そう語った、旧約聖書の律法の世界では、まさしく大正解なのです。

「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」


「正解!わかってんなら、やればいいじゃん。」みたいな?
ところが、実は、たとえ正しい答えを知っていても、それが実行できないのが、私たち人間の現実なんですよね。
それが律法の限界でもあったわけです。

でも、ここで、イエス様は二つの質問をしていたんです。

一つは、律法には、何と書いてありますか。客観的に、聖書にはなんて書いてあるか…です。

しかし、もう一つは、あなたはどう読んでいますか。あなた自身の現実問題として、どうなのかです。
その問いかけ。

もし、ここで彼が、「聖書にはこう書いてあります。しかし、私にはそれを実行することはできません。
どうすればいいのか、教えてください。」、そんなふうに答える事ができたならば、話は変わっていた
かもしれませんね。


しかし、彼は、正しい答えを知っていました。本人的には、実行しているつもりだったんでしょう。
でも、実際には、目の前にいるイエスという存在を愛していないことにも気がつかず、自分は正しいと
主張している…そこに盲点があるのです。

みなさん。聖書を読むとき、変な話、自分が正しくなるために、聖書を読んでも、実はあまり意味がないんですよ。
むしろ、聖書を読めば読むほど、自分の正しさよりも、足りないところ、欠けたところが見えてくるはずです。
でも、聖書の前、神の前では、そんな自分を認めていいんです。

自分が正しくある必要は全くありません。
それどころか、「私にはそれを実行することはできません。無理です。どうすればいいのか、
教えてください。」という姿勢で読んではじめて見えてくる答え、意味もあるんですね。


10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。
「では、私の隣人とは、だれのことですか。」


私は、家族も愛している、友人も愛している、向こう三軒両隣、隣人たちを愛しているぞ。
さあ、私の隣人とは誰だ…。と待ち構えているわけですね。
自分の正しさを示そうとして言っているわけですからね。自信満々です。


そこで、イエス様が語ったのが、この良きサマリア人へのたとえというわけです。


エルサレムからエリコヘ降る途中、ある人が強盗に襲われます。
このエリコヘの道は、荒野の山岳地帯、曲がりくねっていて、死角が多く、強盗が多いことでも有名でした。
はじめに通りかかかったのは、ユダヤ人の祭司です。
次に通りかかったレビ人というのも、神殿で仕えるやはりユダヤ人のことです。


ユダヤの律法では、もし血に触れたら、律法の定めでは身を清める期間をおかなくてはなりません。
その間、仕事ができなくなる。
彼は、顔見知りの隣人ではないし、悪いけど、そのままにしておこう…、そういうことは十分にありえたのです。


「誰が私の隣人なのか…」
彼らは、自分の隣人でなければ愛さなくても、律法には反しないと考えていました。
いや、そうすることで、自分を正当化させていたのかもしれません。
これが彼らの考えていた律法を守るということ、彼らの言っていた正しさだったのです。


その後に通りかかったのは、サマリア人です。


サマリア人というのは、半分ユダヤ人、半分異邦人の混血の人たちです。
外国の神々、偶像礼拝を取り入れてしまった、そんな彼らを何百年もの間、ユダヤ人たちは、
口も聞かなければ、触っただけでも汚れる、犬さん、豚さん扱いして、差別していました。


「強盗に襲われたある人」も、普通に考えてユダヤ人という設定です。


そのサマリア人が、ユダヤ人を助ける…。ありえない。
しかも、傷の手当てをし、宿屋に預け、代金を支払い、足りなければあとで私が払う、
ありえないような徹底した介護です。ここが、このたとえ話の最大のポイントです。

10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

「誰が、私の隣人なのか」ではなく、「誰が、隣人になったのか」。
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」


彼は、やっぱり差別意識から、サマリア人とはいえないわけですよね。
「その人にあわれみをかけてやった人です。」と答えるわけです。


これは、単に、隣人を愛しましょうとか、いい事をしましょうとかいう、そういうレベルの話ではないのです。
 
何世代もの恨み、憎しみを超えて、人を赦し、人を愛する愛…。


やってみれば、わかります。このサマリア人と同じ事が、できるのか…。
なかなかどうして、できない。

「誰が、その隣人となったのか…」、なり得たのか。

これは、まさに、イエス様なんですよね。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているかわからずにいるのです。」
自らの両手両足に釘を打ちつける者のためにも祈る愛。
律法では成し得ない、まさに十字架によって示された愛が、今、あなたの目の前にある、もう来ている。その宣言でもあるわけです。

するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」


私たちにも正直、難しいことですよね。

それも自分の嫌いな相手。自分の苦手な人。自分のことを批判したり、悪く言ってくる人。
その人を自分のように愛せるのか。隣人になっているのか…。なれるというのか…。
決して、自分はできているとか、自分は正しいなどとはいえなくなると思います。

それにもかかわらず、私たちも、自分の正しさを主張して、誰かを非難してしまうことって大いにあるように思います。

それも、非常に身近な相手に対して、日常的な小さなことのなかで、おきてくる。
それが、私たちの現実、日常の姿。マルタとマリヤの姉妹のエピソードに繋がっているんです。


このマルタとマリヤの話。みなさんは、どう読んでいるでしょうか。

もし、マルタとマリヤを比べて、マルタはダメで、マリヤが正しい。
マリヤのように御言葉を聴く事が大事、マリヤのようになりましょう…と読んでしまうとしたならば、
実は、この律法の専門家と同じになってしまうように思います。


でも、ここで、最初、マルタは、マルタでよいことをしていたんです。
イエス様が家に来た時、マルタは、もう喜んで、もてなしの準備をはじめた。
それは、イエス・キリストの愛を受けて、マルタの自主的、自発的な愛であったはずだったんです。

ところがまあ、イエス様だけならともかく、ペテロだの、ヨハネだの、その他大勢、名前もよく覚えて
いないような有象無象の弟子たちも一緒にいたわけでしょ。
あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ、それはもう忙しくて、大変だったわけですね。

そんな時に、ふと目をやると、妹マリヤは何もせんと、イエス様の話ばかりを聴いている…。


なんだか自分ばっかりが苦労しているような…、マリアは、怠けている、マリヤは、おかしい…。
そりゃ、ないんじゃないんの、空気読めよ…的な?
まあ、だんだんと腹が立ってくるわけですね。

挙句の果てに、ちょっとイエス様も、なんとも思わないの!

こういう感情って、私たちのうちにも、起こりがちですよね。


10:40「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。
私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
キィーッ!!! みたいな?

「キィーッ!!!」とまでは、聖書には書いてないんですが…、文字にもならない高周波ノイズも、
十分、乗っかっているような気がしますよね。


マルタは、どうして、こうした感情が起きてしまったんでしょうか…。

はじめは、イエス様をもてなす気持ち、愛する気持ちからしていたことなんです。
マルタの失敗は、自分とマリヤを比べて、自分ばかりが苦労を負わされているかのような、
あるいはイエス様がどう思っているのか、イエス様の評価を気にしてしまったのかもしれません。
私たちは、ついつい自分と人とを比べてみたり、人から自分が認めてもらいたかったりしてしまうんですよね。


でも、聖書がいっているのは、ただ「隣り人を愛しなさい」ではないんですね。
あなたの隣り人を、あなた自身を愛するようにしなさい。
つまり、ここには「自分自身を愛する」ということも含まれているんです。人よりも前に、まず、自分なんです。

自分を愛するというと、ナルシストみたいな?自己中心的に思えるかもしれませんが、そうではないんですよ。
ナルシストというのは、自分だけが愛されたいんです。
実は、自分で自分を愛してあげることが出来ていないから、人から必要以上に愛されることを要求するわけです。

もし、マルタ自身が、人との比較ではなく、自分で自分自身のことを認める、愛することが出来ていたなら、どうだったでしょう。

自分が、この時、これが必要だと判断し、自分がしようと決めてした、よいことであれば、
マリヤが何をしていたとしても、それは構わないはずなんです。
実際問題、もしマリヤが、この時、用事で出かけていたとしたら、なんとも思わなかったはずなんです。
本当に助けが必要なら、普通に手伝ってくれる?とお願いすることも出来たと思います。


ところが、マルタは、ついつい傍にいたマリヤと比べてしまった。
あるいはイエス様がどう思っているのか、イエス様の評価を気にしてしまった…、
その時、自分で自分のことが、認められていないような錯覚に陥ってしまったんでしょうね。

どうでしょう。人を非難する自分と、人を愛する自分…。
自分を上から客観的に見たときに、どちらの自分の方が、自分で自分のことを好きになれそうでしょうか。
私たちが、人を非難し始めるとき、実は、自分で、自分自身のことを傷つけ始めているんです。

はじめの愛する気持ちから、いつの間にか、嫉妬や怒りの感情へと変わっていってしまったわけです。

10:41 主は答えて言われた。
「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
 10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。
マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」


あくまで、マルタはマルタで、よいことをしていたんです。
でも、マリヤはマリヤで、この時にはイエス様の話を聴くことが必要だと判断し、よいほうを選んでいたわけです。
それを非難したり、変えさせたり、奪ったりする必要までは、マルタにはなかったはずなんです。

でも、これでもし、マルタが非難されてしまうのだとしたら、それも違います。
逆に、もしマリヤが「ちょっと先生。マルタにもてなしの準備ばかりしていないで、少しはお話を聞くように言ってください。」
なんて言ったとするならば、イエス様はマリヤに同じように言ったのではないでしょうか。
「マルタはマルタで、良いほうを選んだのだ。」


どうしても必要なこと、キリストの願いは、ただ一つ。

『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』


私たちが愛するという事、その心、その1点に集約されてくるように思います。


愛するという事には、こうすれば正しいという方程式はありません。
これだけしていれば、もう十分だとか、完璧だということもないんですよね。
あれもできたらいい、これもできたらいい、そう思ったとしても、自分自身の器の限界を超えて、
多くのことを抱えてしまえば、結局のところ、できずじまい、それが怒りや非難に変われば、本末転倒になります。

人との比較や、人からの評価でもありません。人がどうかよりも、まず自分です。
マルタはマルタで、よくやっていたんです。マリヤもマリヤで、よくやっています。
私も私で、私なりに、よくやっているのなら、それでいいのです。

私たちが本当に自分自身を見つめていくとき、決して完璧なわけではないし、またまだ発展途上。
失敗もすれば、足りないところも、大いにあると思います。
決して、良きサマリア人のようには、できていないはずなんです。

私だってそうですよ。今だって、こうしてメッセージ用意していながら、会社で誰かの事をコノヤローって
思ったりしちゃうんですから。

私たちができること、今していることというのは、その時、その時、今の自分にできる範囲、レベルのことで
しかないんですよね。それ以上も以下ありません。
その自分を、ぜひ自分自身で、良くも悪くも、しっかりと認めてあげてください。


でも、ここが一番大切なのですが、そんな小さな欠けだらけの自分自身のことを認めることができる時、
そんな自分をも愛するイエス・キリストの愛の大きさ、偉大さも見えてくるのです。

誰が、そんな私の隣人となったのか…
あの良きサマリア人のように、いや、それ以上に、歴史の事実として、イエス・キリストは、この私の
良き隣り人として、命を懸けて愛してくれているわけですよね。

その愛を感じるとき、人の足りないところも、また赦せてくるのではないでしょうか。


どうしても必要なことはわずか、いや、一つだけ。
この小さな私をもキリストが愛してくれているというので、だから自分なりに、自分らしく、
神様を愛し、自分を愛し、そして隣人を愛する…。この3つの愛に生きる。


このキリストの愛によって支えられ、守られ、育まれながら、一つ、また一つと、自分を愛し、
隣人を愛する人生へと変えられていけたらいいですね。


 

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2011年08月09日

「もう一年」の愛 ルカ13:1〜9

(8/7 茅ヶ崎シオンキリスト教会 主日礼拝)

みなさん、おはようございます。
はじめましての方もいらっしゃるかと思いますが、千葉・市川からやってきました竹下 力と申します。
この教会は、前回も8月に来させていただいて、ちょうど1年ぶりになりますが、皆さんと礼拝を
ご一緒させていただいて、うれしく思っています。

今年の夏は、夏らしくない涼しい日も多くて、節電という意味では助かるかもしれませんが、
セミの鳴き声ってあんまり聞いていないような気がしません?
私の周りでは、あんまり鳴いていなくて、心配なくらいだったんですが、ようやく夏らしい暑さに
なってきましたよね。

急に暑くなると、今度は体が大変だったりするかもしれないんですが、食べ物も、何かと痛み
やすいと思います。
実は、ついこないだも、炊いていたお米を一晩で腐らせてしまったんですけどね…(笑)。

お米を炊いて、コップか何かに入れて、そのまま放置しておいたとします。
今の時期なら、普通、一晩か、二晩かで腐りはじめ、1〜2週間もすれば、当然、茶色く溶けて、
腐っていくと思います。

…これが、普通だと思いますよね?私も、そうでした。

ところが無農薬・無肥料という自然栽培で作ったお米を、同じように放置しておくとどうなるか…?

やがて発酵しはじめ、アルコールになり、さらに酢に変わっていくんだそうです。
考えてみれば、実は、これが本来の自然の姿なんですよね。
その植物が持つ自然の力をしっかり身につけた、健康で丈夫な作物がとれるというわけです。


一方、農薬や化学肥料を使って育てた作物というのは、見た目は立派に育っても、
病気になりやすく、腐りやすい。本来、その植物がもつ自然の力、生命力やら、抵抗力やらを
奪われてしまっているというんです。


私たちも、病気になったら、薬を飲む…これが当たり前になってくる。
なぜならば、それが手っ取り早いからですよね。
決して、薬を100%否定するわけではないですよ。
でも、その前に、私たちの間でも、失っている自然の力もあるのかもしれませんね。


実に、この自然界を創ったのが、私たちの信じている神さまです。
パウロは、ローマ人への手紙の中で、「神の目に見えない本性、神の永遠の力と神性は、
被造物によって認められる」と書いていますが、私たちもまた、同じ神様によって創られた
自然界の一員なんですよね。


でも、私たちは、自然から離れた生活をしていることで、本当は不自然な状態を常識だと
思い込んでいたり、本来あるべき自然の姿や、強いては神様のことも見失っていたりする
部分があるような気がします。


さて、今日のたとえ話も、そんな人間の常識を覆す話なのかもしれません。


今日のこの聖書の記事を読んだ時、皆さんは、どのように感じたでしょうか…。
単純に読んでしまえば、「悔い改めなければ、いつかは滅びるぞ〜。」
神様も3年は辛抱…、がんばって、もう1年、4年目で成果が出なければ、滅ぼされる…
そんな話にも聞こえなくはありません。


でも、聖書全体から見たらどうか、イエス・キリストの十字架と復活、信じる信仰によって
救われる…この福音の大原則から考えると、その解釈では、それらを根底から覆すことに
なるわけです。

だとすると、何かが違っているわけですよね。。。?


皆さんが、この先、聖書を読む上で、いろんな解釈にもあたると思います。
でも、本当に、イエス様が言いたいことはなんだろう…、
本当に、聖書が伝えようとしていることはなんだろう…
決して、ただ鵜呑みにせず、自ら読み取っていく力も身に付けていっていただければと
思うんですね。この時に、カギになる一つが前後の文脈です。

さて、今回の話には、前振りがあります。
エルサレムの神殿で、とんでもない事件が起こったというんです。


…ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜた


あるひとたちが、そのニュースを知らせに来たというわけですね。
このニュースを聞いたのが皆さんだとしたら、普通、どう感じますか?


ピラトのやつ、けしからん。なんて、ひどいことをするんだ!…
非難の矛先は、まずピラトに向くように思いません?

ところがです。イエス様が、ここで奇妙な返事をしていることに、お気付きでしょうか。

13:2 イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、
ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。…」

そんなことは、誰も、一言も、言っていませんよね。。。?
ガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
罪深いとか、関係ないじゃないですか。

でも、ここに描かれていないだけで、実際に、その場にいた人たちは、そういうふうに思って
いたからこそ、そう答えているんですよね。


…神様の住まいである神殿で、
 神様を礼拝しにきたガリラヤ人たちが、
 こともあろうに、ローマ人のピラトに殺され、
 しかも、神様に捧げられた、いけにえの血に混ぜられた…


 これは、よっぽどガリラヤ人の罪が深かったに違いない。
 じゃなければ、神様がピラトの行為を放っておくわけがない。


当時のユダヤ、律法主義的な考え方では、こんな災難に遭うのは、罪が深かった証拠、
神様からの祝福を失っている、神の裁きに違いない…これが常識だったんです。


そういうふうに考えていたから、釘を刺すかのように、イエス様が答えたわけです。


13:3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、
みな同じように滅びます。

この「悔い改め」という言葉。
「悔い改め」というと、ひたすら罪を悔いて、行動を改める…というふうに思いがちですが、
ギリシア語で「メタノイア」。
心と体の向きを変える。考え方を変える。そういう意味の言葉です。

つまり、方向の転換、発想の転換をしなさい…ということなんですよね。


…あなたがたは罪が深いから、このような災難に遭う。神が裁きが下る。
 そのように考えていますが、そうではない。
 あなたがたは、天の父を誤解しています。
 悔い改めてください。考え方を変えてください。
 あなたがたの身にも、似たような災難は起こるものです。
 もしそのまま同じ考え方で行くなら、同じように、神に滅ぼされることになりませんか?


これが、イエス様が言いたいことなんです。
さらに、シロアムの塔で起きた事故の話を持ち出すわけですが、これも当時、人々の話題になっていたんでしょうね。


13:4 また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。


私たちの感覚では、偶然、偶発的な事故だと考えると思います。
罪が深いかどうかという発想にすら、結びつかないと思うのです。


ところが、あんなことが起きるのは、何か罪を犯していたに違いない、祝福を失っている、
きっと神様の裁きに違いない…、そんな話が、本当に話題になっていたから、イエス様が
持ち出しているわけです。


本当に、罪が深かったから、神様の裁きがあったからなんでしょうか。
その事故の犠牲になった18人の周りには、その突然の死を悲しむ家族や友人たちも
当然いたわけですよね。にもかかわらず、そんな話が、まことしやかに、ささやかれて
いたとしたら、どうでしょうか。


東日本大震災では、多くの人たちが被害に遭い、今もなお避難所生活を余儀なくされて
いる人もいるわけです。
他の誰かよりも、罪が深かったのでしょうか。クリスチャンは、被害に遭わなかったので
しょうか。神様からの祝福や守りを失ったのでしょうか。

13:5 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」


そもそも、日本は、地震で形作られたような国なんですよね。
ついでに、火山もあれば、台風もあります。これが、そもそもある日本の自然です。
私たちは、その自然界の上で生きている人間です。

自然は時に厳しくもありますが、私たちは、この日本の自然界の中で、四季折々、
いろんな恩恵もしっかり受けながら、命を育まれ、暮らしてきたわけです。

関東にいる私たちにも、この日本にいる限りどこででも、この先、同じような地震や
津波に遭う可能性は十分にありえます。
私の実家は静岡なんですけれども、静岡では東海地震なんて、私の小さい頃から、
近い将来必ず起きると言われ続けているわけです。


でも、いざ、もし、それらが起きた時に、それは神の裁きなんでしょうか。
神様に守られなかった、神様の祝福を失ったのでしょうか。
そうではない。


この前、7月に東北に行ってきましたけどね。
石巻では、海から離れた市街地まで、津波の水を押し寄せていて、今もなお、
ヘドロを家の中から、懸命に取り除いているんですよね。
しかし、まさに、こういうところにこそ、キリストの力は働くわけですよ。

それまでは存在すら知られていない、見向きもされなかったような本当に小さな教会にも、
国内ばかりか海外からも、そこに教会があるということで、やれ物資は送られてくる、
ボランティアはやってくる、また彼らの懸命な奉仕の姿に、地域の人たちにとっては、
教会が不思議な存在として光っているんですよね。

家ばかりではありません。中には、家族や友人をなくした人もいます。
でも、そういった助けや励ましを受けながら、多くの失望感に負けず、復興に向けて、
懸命に生きているわけです。


私たちが、同じような事故や災難、自然災害に遭うことも、当然ありえます。
怪我もすれば、病気にもなります。この世にあっては、誰にでも、いつか死という時も訪れます。
罪という点でいえば、50歩100歩です。
もしこれが、特別、罪が深かった、神の裁きというのなら、みな同じように滅ぼされた…と
いうことになってしまいます。
これでは、いざ何か自分の身に降りかかった時、希望も、救いもなくなってしまいますよね。

イエス様は、そういう因果応報的な考え方を、真っ向から否定したんです。

そんな話があったあとに語られたのが、次のたとえ話となるわけです。
よろしいでしょうか。

たとえ話を読み解くポイントは、よくある話の中で、ありえないような話が出てくるところがあります。
そこがイエス様のオリジナルの部分、つまり一番語りたいところにもなります。


13:6 イエスはこのようなたとえを話された。
「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。

13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。
『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。
これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』

ぶどう園に限らず、自分で食べる用に、他の作物を植えるのは、よくある話です。
収穫を期待しているこの主人は、腹を立てます。3年もの間、実らず、この土地をふさいでしまっている。
これでは雑草と一緒。切り倒して、他の作物に切り替えよう…生産性を考えれば、当然の話、常識です。


13:8 番人は答えて言った。
『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。

これも理解できます。
土地の持ち主はこの主人かもしれませんが、このイチジクの世話をしてきたのは、この農夫です。
せめて、もう一年…。そう願う気持ちも分かります。ところがです。


 13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」


実は、ここで、おかしな話が出てきているんです。
日本語では分かりにくいんですが、この農夫が言っているのは、
「それでもだめなら、来年には、切り倒しますから…。」ではなかったんですよね。
直訳的に訳せば、「あなたが切り倒せ。」命令形で書かれているんです。

それでもだめなら、切り倒してください。
私には、切れない。あなたが、切り倒せ。自分で切ればよかろう。。。そう言っているんです。

この農夫も、主人に雇われて、生活している身です。
本来ならば、主人が切れというなら、切るのが仕事です。
ところが「あなたが切れ」、そんなことを主人に言おうものなら、下手すりゃ、自分がクビ。
イチジクの前に、自分が切られても不思議ではありません。

でも、この農夫は、自分の首や生活まで賭けて、このイチジクを守るのです。ありえない。
たかがイチジク、しかも、ぶどう園の脇にある、実を結ばないイチジクをです。

もし来年、また駄目だったら、この農夫はどうするでしょうか…。

私には切れない。もう一年、それでも駄目なら、もう一年…、頼み込むに違いないのです。


…あなたがたは、天の父を誤解しています。
 3年もたって、実を結ばなければ、罪を悔い改めなければ、切り倒してしまう、
 この主人のように、神様は、厳しくて、恐ろしい方。
 それが当然、それが常識だと勘違いしています。

 しかし、そうではない。

 天の父は、この農夫のように、もう1年、もう1年…
 実を結ばないイチジクの木でも、なんとか養い、育て、実を結ばせようと努力する
 そういう、やさしいやさしい農夫のようです。


これが、イエス様の言いたいこと、イエス様の心です。


たとえ話で、「主人」だからといって、必ずしも、神様のことを指しているとは限りませんよ。
むしろ神様よりも、人間の勝手な思い込み、常識のほうが主流、まさしく「主人」のように
なっていたりもしますよね。


私たちは、どうでしょうか…。
私たちの心にも、この主人のように、2年、3年で結果を求めてしまう、そんな心も出て
こなくもないですよね。

何のために土地をふさいでいるのか。切り倒した方がいいじゃないか…。
会社だって、営業マンが3年も成果ゼロだったら、間違いなくクビです。
経営者であれば、たとえ、どんなに切りたくなくても、時に、雇えなくなる、切らざるをえない、
そういう状況に追い込まれることもあると思います。

私たちの人間関係の中において、時に、人を非難する言葉を耳にしたり、自らも口にしたり、
切ってしまおうという心が、起きてくることもあるのではないでしょうか。。。

この社会に暮らす私たちにとって、主人の考えの方が、常識に近いんです。
だから、神様も同じだと思い込みやすいんです。


本当は神様も、ある意味、神であるからこそ、私たちを裁かなくてはならない、そういう立場
なのかもしれません。私たちも、本来なら、裁かれて当然の罪人でしょう。

でも、わたしには切れない。
もう一年、もう一年…、と養い、育てようとするのが天の父、この自然界すべてを創った
創造主なる神様なんです。
イエス様は、そのために本当に命をかけて、十字架まで背負った。


…神は、実に、そのひとり子を与えたほどに、この世を愛された。
 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を得るためである。

今、どのくらい、その心、愛が、私たちの心で感じ取れているでしょうか。。。


たとえ私たちが、畑の脇の、実を結ばないイチジクの木であったとしても、
神様は、もう一年、もう一年…と、あきらめず、永遠に、愛を注いでくれているわけです。


私たちのこの人格、この心を本当に養い、育てるのは、「切り倒してしまおう」の心ではなく、
もう一年、もう一年…と、養い育てようとする、まさに、この神様の「もう一年」の愛なのでは
ないでしょうか。

私たちも、「切り倒してしまおう」の心ではなく、「もう一年」の愛を心にいっぱい蓄えながら、
歩んでいきたいものですよね。



…番人は答えて言った。
 ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。
 木の回りを掘って、肥やしをやってみますから…。

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2011年08月01日

東北の単立教会を周ってきました

7/16〜7/20 まで、竹下 力・静の二人で、第二回目となる東北・単立教会を巡回してまいりました。

石巻 野外コンサート シーサイドバイブルチャペル 南相馬 流された漁船

前回5 月に比べれば、津波によって破壊された多くの瓦礫もだいぶ撤去されています。
しかし、屋内や田畑にはまだまだ多くの泥が被った状態であったり、一見、広大な田畑であったかのような場所が、実は家屋や施設が立ち並んでいた場所だったりと、現地の人たちにとって、多くのものが失われた状態であることには変わりがありません。
また、「庭先に遺体が流れ着いていた」とか、「家族がこの先のどこそこで見つかった」など、多くの悲しみや痛みが記憶となって刻み込まれていることを感じます。
そんな失望感に負けまいと、前向きに新たな生活や、地道な復興作業を行なっているのが現状です。

そんな中を通って、各地の教会に辿り着く時、妙にほっとするのです。
教会で、聖書から慰めや希望の言葉が語られ、交流が持てた時の安堵感は、おろかな話かもしれませんが、普段感じ得ないほどでした。
今回は原発から22km という避難地域ギリギリのところにある原町聖書教会にも行ってまいりましたが、たとえ、どんなに小さな教会であっても、そこに主の教会があることの存在意義を改めて深く実感させられる巡回訪問の旅となりました。

各教会の先生方、皆様も被災者です。私たちも続けて、多くの励まし、希望、祈りの言葉を贈り続けたいものです。

詳細は、聖望教会のブログにて
http://seibou.seesaa.net/category/10843035-1.html

東日本震災単立教会支援


ラベル:東北支援
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2011年07月13日

東北・単立教会訪問2回目予定

7/16〜7/20にかけて、第2回目の東北教会の巡回訪問を行います。

7/16
 移動のみ

7/17 シーサイドバイブルチャペル(仙台市)…竹下静礼拝賛美奉仕


7/18
 石巻祈りの家(石巻市) …ボランティア作業参加/竹下静野外コンサート


7/19
 (保守バプテスト・北上聖書バプテスト教会…佐々木師訪問)


7/20
 原町聖書教会(南相馬市)…初訪問

所属の聖望キリスト教会(市川家庭集会)の他にも、単立・シャローム福音教会(横浜市)、静岡その枝キリスト教会(静岡市)の皆様にも趣旨に賛同いただき、皆様からの義捐金と贈り物をお届けしてまいります。

今回は、前回視察訪問させていただいたシーサイドバイブルチャペル、石巻祈りの家の他、南相馬市で原発から22kmという避難地域ギリギリのところで教会を継続している単立・原町聖書教会(石黒師)も訪問させていただくことになっております。

ぜひ、お祈りください。


東北・単立教会支援趣旨&第1回訪問レポート
http://seibou.seesaa.net/article/200489162.html



東北単立教会支援
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2011年05月11日

最も小さな者にしたこと マタイ25:31〜46

皆さん、おはようございます。

今日は、母の日、女性の日…ということでして、本来なら、女性に関連した箇所から、お話する方が、ふさわしいのかもしれないのですが、せっかく被災地にも行ってきたということもあって、こちらの話題を取り上げさせていただきました。

先ほど、実際に写真を見ていただきましたが、いかがでしたでしょうか。

石巻南部20110430 石巻市街地20110430 石巻市街地20110430-2
荒野の十字架 

テレビや何かでは、あの津波が押し寄せてくる衝撃的な映像は、皆さんも、よくご覧になっているかと思うんですね。
しかし、震災から50日経った今も、建物の瓦礫や車の残骸が残されたままの、まさに荒野と化した、静かなる現実がここにはあるように思います。

まさに、この世の終わり…かと思うような出来事。実際に、あの津波を経験した人にとっては、そうだったと思うんです。
正直な心情として、神様は何故このようなことをしたのか…、神様がいるなら、なぜ、こんな地震や津波があるんだろう…という思いも起きなくはないと思うんです。あるいは、神様の計画の中で、何かの意味が合って起きたとか、そこに意味づけしようとしたりとかね。

ですが、私たちは、ここで考えなおさなくてはならないのは、どんなに大規模で、被害が大きかったとしても、決して、あの地震や、津波そのものが、何らかの神の警告だったり、裁きだったり、まして、世の終わりではないということなんです。

今回の箇所も、前の24章から続く、終末、世の終わりについて書かれた一連の箇所なわけですが、まず簡単に、聖書が言う、終末、世の終わりについて考えてみたいと思います。

確かに、聖書には、世の終わりの前に、地震が起きることも書かれています。
24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
確かに書かれています。ですが、
24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
産みの苦しみのはじめであったとしても、「終わりではない」…というわけですね。

では、世の終わりとは、なんなのか…

聖書が言う、世の終わりに起きること、それは戦争や地震そのものではなく、そういった事で起きる、人々の不安や恐怖に乗じて、片方で反キリストや、偽預言者がおきてくる、一方で、不法がはびこり、人々の愛が冷えていく…。こちらです。
この前、ちょっと雑談していた時に出てきたんですが、早速、「わしゃあ、今回の地震を予測していた」だとか、預言が当たっただとか言いおる、自称預言者も出ているというじゃあ、ありませんか。

今回の地震や津波に恐怖を感じた人の中には、飛びついてしまう人もいるかもしれないですよね。
私たちは、こういったところに、目を光らせなきゃいけないんです。

この日本では、地震も津波も、ある意味、この世のはじめからあることなんですよね。
おまけに火山や台風、大雪もあって、この日本という島々の地形や自然界は形作られ、その恩恵を受けながら、様々な生物、私たち人間の命もはぐくまれてきたわけですよね。

つまり、私たちが住んでいる場所に、新たな「地震」や「津波」という災害が起こされたわけではなく、こういった地震も津波もある日本の上に、私たちは、生を受け、暮らしているわけですよね。東北ばかりじゃない、日本全国、どこにでも起こりうることです。

私の実家、静岡ですけれども、小さな頃から、東海大地震、起きれば、津波が来ると言われ続けてるわけですよ。
幸い、まだ来ていないだけで、いつかはくる。
ある意味、静岡の人間と言うのは、はじめから地震や津波が来ることを前提で暮らしているんですよね。
だから、備えもしているし、震度5や6ぐらいじゃあ、驚いても、動じない。
むしろ、まだ、足りない、まだ、こんなもんじゃない…、わけわかんないこと言いますから。
うちの母親なんかすごいですよ。今回の余震の中でも、静岡震度6ってあったじゃないですか。
すぐには電話も繋がらなかったんですが、繋がった時には、もう寝てましたから。
うちのいとこも「おばさん、すごいね。」なんて、驚いていましたからね。

世の終わりも、多少は、近づいているのかもしれないけれども、決して、終わったわけではない。
少なくとも、今、私たちは生きている。また被災地に生きる彼らは、あの被災地にあっても、懸命に生きているわけですね。
決して終わりではない。希望はある。
それを、いわば勝手に、神様の計画がどうとか意味付けしてみたり、むやみやたらに、終わりにしてはいけないな…と思うわけです。
それこそ、何の根拠もない話なんです。

ただね、地震に限らず、私たちの人生と言うのは、いつ、どのように、終わりがくるかはわからないわけです。
それは、30年後かもしれないし、明日かもしれない。
今回みたいな自然災害かもしれないし、事故や病気、本当に、世の終わりの日かもしれない。
分からないですが、いつか、自分とこの世との関係が終わる時もくるわけですよね。
「だから、目を覚ましていなさい。」、今を大切に生きる、今できることをする…ということは、いつでも大切なわけです。

では、私たちが、今、すべきことは、何でしょう…。
そう考えるときに、こうした人々が、不安や恐怖、失望のどん底にある時にこそ、与えていくこと、愛していくこと、まだまだ希望はある、主にある希望を伝えていくこと、これが私たちに与えられている使命ではないだろうか。
それこそ、本当の本当に、世が終わるその瞬間までです。
それこそが「聖なる望み」、聖望キリスト教会でありたいと思うわけですよね。

さて、今日の箇所を見ていきます。

25:31〜 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

まあ、実際に世の終わりが来て、裁きの座に着くときにですね。
右側に羊さんグループ。左側に山羊さんグループに分けられると言うわけですよ。

まあ簡単に言えば、羊さんグループは、よくやった人たち。山羊さんは、やらなかった人たちというわけですよね。
では、私たちは、どっちに分けられるんでしょうか。

ここで、自信を持って、堂々と、私は間違いなく羊グループです…と言える人は、よっぽどの人だと思います。
よっぽど本当に誰にでも尽くしてきた人か、よっぽど自分が見えていないか…どちらかでしょう。
本質的に、私たちは、山羊さんだと思うんですよね。

では、永遠の裁きを受けるんですか…?って、そうではない。
イエス・キリストの十字架のゆえに、罪赦されて、山羊にもかかわらず、羊として迎え入れられているわけですよ。
ですから、私たちが救われるのは、あくまで信仰による、恵みによるんです。

では、なぜ、このようなことが言われているかというと、祭司、パリサイ、律法主義者といった、自分たちは正しいつもり、出来ているつもり、羊のつもりの人たちも、背後にいたからですね。
彼らは正しいつもりでいますから、自分の罪を認めなければ、イエス様の救いも必要としなかったわけです。
しかし、最も小さな者どころか、イエス・キリストご自身に対しても敵対し、十字架に付けていくわけです。
実に、羊のつもりで山羊なんです。

でも、私たちも、注意しなくてはならないのは、「やっている(つもり)」、「できている(つもり)」かもしれません。
実に、出来ていないことは間々あるわけですよね。

ここで言われているのは、ごく普通の兄弟姉妹に対してでもなければ、ただの小さな者でもない、
「最も小さな者たちのひとり」に対してだというんですよ。

25:37〜 その正しい人たちは、答えて言います。
『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、
飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、
着る物を差し上げましたか。
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

「わたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのだ」

私たちは、偉い人、一目置く人、尊敬できる人には、敬意を払い、最善を尽くすかもしれません。
でも、「最も小さな者」ってどんな人でしょうか…。

具体的に、どんな人でしょう…って考えるのも失礼な話かもしれないですけど、ぜひ、ちょっと考えてみてください。
そうしないと、なんとなく、いい話で、右から左へ、スルーしていくんです。

社会的な弱者ということばかりではないと思いますよ。
決して偉くはない人、出来ない人、劣っている人、普段、目にも気にも留めないような人、
あるいは、尊敬なんかとってもできない嫌いな人、そういった自分が「最も小さな者」と思ってしまう「一人」です。

そんなふうに人を見る時点で、もうOUTなんですが、下手をすれば、悪く言ったり、非難したりしているかもしれないですよね。
でも、たとえ、その人が、どんな人であったとしても、誰に対してでも、それはイエス様にしているのと同じことだ…というわけなんですよ。
私たちは、できるているでしょうか…。できていません。これが、正直な、現実だと思うんです。正直でいいんです。
それができていない、私たち自身もまた「最も小さな者たちの一人」なんですよね。

実に、困っていることにすら、気づかないことも、ありそうな気がしますね。
皆さんにも、お配りした「東北支援プロジェクト」ですが、すでに、いろんな支援、ボランティア活動がなされているわけですよね。

「…両手に荷物を抱え、他の避難所を巡り、必要以上に物資集めをしている人がいる一方で、停電のため夜は真っ暗、わずかな灯油で暖を取っているお年寄りがいる。」

誰でも、いっぱい上げて、いっぱい喜ばれたら、うれしいわけですよね。
なんだか自分がすんごく、いいことしているかのように思うわけですよ。
だから、震災当初、物資の配給という時に、ティッシュくださいと言われると、ティッシュの箱を、5箱も10箱も上げたりしていることが、実際にあったそうなんです。
でも、あるお年寄りの夫婦がいて、大丈夫ですか?と声をかけても、大丈夫ですと答える。
でも、心配になって、家に言ってみたら、津波の浸水で、片付けもままならないままの状態でいるわけですよ。
灯油あるのって聞いてみると、あるって答えるんですけど、見てみたら、ほんとうにわずかにしかない灯油で暖を取っている、夜、行ってみれば、真っ暗の中で、すごしていたというのです。

特に2番目のなんか、ひどい話でしょ。
「被災した自宅の泥掻きをしてもらう代わりに、某団体のボランティア拠点として自宅を提供したところ、思い出の品までが泥と一緒に捨てられ、親戚知人が送ってくれた個人宛の支援物資まで配られてしまった…。」

決して、否定は出来ないですよ。それ以上に、各地で大きな活動もしているし、助けられている人たちも大勢います。
某団体と濁しているんですが、実は、クリスチャンで構成された救援団体です。
でも、実際、隠れたところでは、こういうことも起きているわけです。

それで、石巻祈りの家の方が、そのボランティアチームを引率していた先生に、抗議したところ、
「これは神様の働きだから」って言ったというんだから、すごい話じゃですか。
どんな神様でしょう。本当ですか?

これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのだ。

それは、おそらく「最も小さな者」に対し、自分も「最も小さな者のひとり」として、同じ立場、同じ目線で物事を考え、接することができるか、どうかなんだと思うんですよね。

実際、私たちが、助ける側にもなれば、助けられる側にもなると思います。
地震、津波、原発もあります。今、ビンラディンの問題もありますよね。病気も老後も、数々の不安要素というのは、この先も多かれ少なかれ、ありますよ。
写真で見たような、あのような見渡す限り、荒野になった中で、私たちは、自分を守ることに必死になってしまうのだろうか。
それとも、その中でも、なお希望を持ち、人々に与えることを考えていけるのだろうか。
もしかしたら、少しでも安心を得るために、ついつい大きなことを求め、大きな働きに目を留めてしまうのかもしれません。
そこで与えていく、助けていくためには、大きな力がなければ、無意味かのようにも思ってしまうかもしれません。

ですが、ここに出てきているのは、実は、それほど大きくない、小さなことの集まりなんですよね。

 食べ物や飲み物を与え、旅人をもてなし、病を見舞い、人を訪ねる…

イエス様は、「最も小さな者」が「最も小さな者の一人」にした、最も小さなことに目を留めてくださるというわけです。
実は、これこそが必要な心ではないだろうか。

さて、思い出したかのように申し上げますが、今日は、母の日、女性の日です。
最近でこそ、男女平等なんて言われまして、社会で活躍する女性も増えてきたわけですが、それでも仕事の上では、男性のほうが、大きく目立つことが多いわけです。
ですが、主婦の働きもまた、食べ物や飲み物を与え、旅人をもてなし、病を見舞い、人を訪ねる…、どこか通じるところがありますよね。
それで今日は、最も小さな男性陣たちが、日ごろの感謝を込めて、さも自分で創ったかのように、焼きそばを作らせていただくわけですが、その背後にも、しっかり女性の下ごしらえがあったりもするわけですね。

私の父も、出るなといっても出てくる、何か目立つタイプでしたけどね。
父は父で、社会福祉の現場で貢献した人ではあったんですが、家庭の中では、圧倒的に母の働きの方が、すごかったですよ。
寝たきりになった祖母が5年以上かな介護をし、私から見て叔父…父の兄ですよね、その介護が3年、さらに80近くになって、父の面倒も見てきたんですよね。
その間、ずっと家を空けられなくなるわけです。決して、真似して、できることではないと思います。
決して表彰も受けなければ、大きく取り上げられることもないわけですが、父が外で、好きなように働けたのも、実は、背後に、こうした母の献身的な働きがあればこそだったわけです。
イエス様は、そういった隠れた働きに、目を留めていてくださるわけですよね。

私たちには、それぞれできること、できないこと、得意不得意があると思います。
私たちは、どちらかというと、できないこと、不得意なことで、自己否定や、他者を非難してしまいがちです。
ですが、一人一人与えられた、個性、能力は違います。

被災地に対しても、私たちにできることというのは、限りがありますよ。
本当に焼け石に水かのような、小さなことかもしれないですけどね。でも、それは、イエス様にするのと同じことです。

最も小さな者たち全てにはできないかもしれない。でも、最も小さな者の一人にでも与えていく…。
たとえ、どんなに小さくとも、できないことではなく、できることをもって、最も小さな者のひとりに、与えていく者でありたいですよね。

…すると、王は彼らに答えて言います。
 「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのだ。」

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2011年01月31日

この岩の上に… マタイ16:13〜28

みなさん。おはようございます。
今年、はじめてになりますね。1月ももう最後の週となりまして、いまさら、あけましておめでとうという感じではないんですが、みなさん、新しい1年をどのように迎えられたでしょうか。

前回、年末のメッセージでは、初日を見に行くという話もさせていただきましたけど、今年も行ってきました。
やっぱり初日はいいですよ。なんか好きなんですよね。
真っ赤に燃えた太陽が昇ってくる瞬間に、美しさと同時に、その熱、エネルギーを感じるわけですよ。
これは何も、初日に限ったことではないんですが、私たちは、太陽をはじめ、この自然界のあらゆる恵みの上に、今日も生かされているんですよね。
創世記の1章では、はじめに神が天と地とを創造された…と出てくるわけですが、このね、「はじめに、神が…」、この「はじめに、神が…」あって、今現代にいる私たちも、本当に生かされているんですよね。
私たちの努力や行ない、何をどうして生活するか…、これらも重要なことではあるんですが、でも、それよりも何よりも前に「はじめに、神が…」、はじめに、神様からの恵みがあるんです。聖書は明確に、そのことを宣言しているんですよね。
今年もね、早速、実生活の上で乗り越えなくてはならない課題があがっていたりするんですが、大丈夫、光は輝いている。そんなことを実感させられた次第です。

さて、今日のお話は、ピリポ・カイザリアでの出来事。
ピリポ・カイザリアというのは、イスラエルの北端になりまして、ヘルモン山のふもと、言うなれば、イエス様の宣教の折り返し地点となります。

この場所は、ヘルモン山の雪解け水が湧き上がっている場所でして、イスラエルには珍しく水が豊富で、糸杉のような木々の緑も豊富なところ、ヨルダン川の源流となっているような場所です。

そこに、ヘロデ大王の息子ピリポが町を作り、ローマ皇帝カイザル(英語でいうところの、ジュリアス・シーザーになるんですが)、両方の名前を取りまして、ピリポカイザリアという街になっていました。
今では遺跡のみが残っているんですけれども、この街の中心には、高さ100mくらいかな、岩というより崖がそびえていまして、そこにギリシアの神様「パン」が祭られ、神殿が建てられていたんですね。

言うなれば、他の神々、偶像礼拝中心の街です。そこでイエス様が弟子たちに尋ねられているシーンです。
「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
まあ当時の人たちは、バプテスマのヨハネだとか、エリヤだとか、いろいろなことを言っていたようですが、

16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

ここでペテロは、「生ける神の子キリスト」だと告白するわけですが、ただ「神の子キリスト」ではなく、「生ける神の子」、岩に刻まれたような死んだような神ではない、あなたこそ、正真正銘、生きとし生ける神の子、キリストである…ということなんです。

もちろん、このとき初めて、ペテロや弟子たちがキリストを信じたというわけではないと思います。イエス様に、何か特別なものを感じたからこそ、これまで彼らはついてきたわけでですよね。でも、彼らもユダヤ人ですから、実際に、神が人になる、あるいは人を神として信じることは、ある意味、恐ろしい、違っていれば死にも値する、怖いことでもあったはずなんです。
ですが、この直前にも、7つのパンを4千人に与えていく奇跡を目の当たりにしたわけですが、そんなイエス様が成すことを見、また人格的な交流もありながら、この方こそ、100%人でありながら、100%神、まさに天地万物を創り、荒野でマナを降らせ、人々を救い、人々を生かす神ご自身であるという確信へとなっていったわけです。

16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

ペテロもそうですし、私たちもまたそうですが、私たちの信仰というものも、私たちが信じるようで、実は「はじめに、神が…」なんですよね。
はじめに神が、天と地とを創造された。はじめに神が、イエス・キリストをお遣わしになる。はじめに神が、聖霊を送ってくださる。実に信仰というものも、私たちが信じているようで、はじめに、神が与えてくださっている恵みなんですよね。

16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。
ここでは、聖書が書かれたギリシア語と、当時、実際に話されていたアラム語が混ざっているので、ちょっと、ややこしくなっています。

先に出た「バルヨナ」というのはアラム語で、ヨナの子という意味、シモンが本名です。
ぺテロは、あだ名なんですが、これは、ギリシア語に訳したもの。
アラム語では ケパ…、岩という意味です。パウロは、手紙の中では、よく「ケパ」と呼んでいますが、これが本来のアダ名なんですね。
イエス様も、当然、このとき、アラム語でしゃべっていたはずですから、

あなたは、ケパ、岩だ。この岩の上に、わたしの教会を建てる。これが順当なところだと思います。
ここからが、今日の本題なんですが、先ほどお話したように、このピリポカイザリアには、崖のような、本当に巨大な岩があるわけです。

そこで、あえて、イエス様から、あなたは岩だと言われたとしたら、どうでしょう。
ぜひ、高さ100mはあるような巨大な岩が目の前にあることを想像してみていただければと思うわけですが、それに比べたら、人間なんて小さな存在です。
自分の何が岩だって言うんだろう??そんな感じもしませんか?

ぺテロというと、おっちょこちょいで、イエス様の前では、よくたじたじになっていますが、このあとも失敗して、「下がれ、サタン」まで言われているんですよね。

でも、イエス様は、そのぺテロに、なぜ、岩だと呼んだんでしょうか。
これが、今日のお題です。

またね、竹下が、妙なところに、疑問を持ち始めたって思われちゃうかもしれないんですが、どうして岩だったと思います?
そんなこといったって、イエス様が、岩だって呼んだんだから、そうなんでしょう…といわれてしまえば、そうなんですけどね。

もともとの名前、シモン…というのは、聞くもの。従順である。という意味です。
これも、なかなか、いい名前でしょ。
でも、イエス様は、そのシモンという名をおいてまで、あえてケパ、岩だと呼んだ。
そこには何かしら意味もあるような気がするじゃないですか。

たとえばですね、ぺテロはそもそもガリラヤの漁師ですから。
案外、頑固者だったのかもしれないですね。人の言うことなんか聞かない、思ったことはやってみる、やってみないと気がすまない、お前はシモンじゃないよな〜、ケパ、岩だよ、なんてアダ名がついたんなら、わかるような気がするじゃないですか。
これは全くの私の想像ですが、アダ名って、そういう風につくんですよね。

普通に解せば、キリスト信仰ということになるんだと思います。
でも、ぺテロが岩のような大きく固い信仰の持ち主だったのか?

…というとですね、そうでもないような気がするんですよね。
聖書では、どちらかというと揺らぎ、迷い、逃げるぺテロの姿が描かれているわけです。

荒れた湖を歩いてきたイエス様に、私も傍に行かせてくださいといって…湖の上を実際に1歩でも2歩でも、歩いたんですよ。でも、怖くなって、ドボンと沈んで、溺れちゃう。
またイエス様が捕らえられた時、それでも、がんばって、大祭司カヤパの官邸までついて行くんです。でも、そこで、三度、イエス様のことを知らないといってしまう。

これが、ぺテロです。
その時のペテロには、自分が、まるで石ころみたいな存在に感じられたのかもしれない。岩のような揺るがない意思や信仰まで持っていたか…というと、決して、そういうわけではなかったんですよね。

それでも、イエス様は、あなたは岩だ、キリスト信仰が刻まれたあなたは、目の前にあるような岩になる。そう語られた。ここに、イエス様の心があるんではないかと思うわけです。それは、ペテロの何かではなく、生ける神ご自身がそう語り、そう働くからです。

私たちはどうでしょう。
自分自身を見たときに、実際、本当に石ころみたいな存在に思えるかもしれません。
それがぺテロであり、私たちのリアリティ、現実そうだとしても、イエス様は、あなたは岩だとおっしゃるんです。

生ける神の子キリストを信じる信仰のゆえに、あなたはケパ。あなたは岩になる。この岩の上に、わたしの教会を立てていくよ。

私たちが注意したいのは、たとえ今の状態がどうであっても、それで信仰のよしあしだとか、クリスチャンとしてのよしあしを、簡単に評価、決めつけてはならないってことなんです。他者はもちろんですが、自分自身であったとしてもなんです。
あるいは霊的にいいとか、悪いとか。。。
霊においては、本当は、いいも悪いもないはずなんですよ。信ずる者は、みな聖霊を受けてるんですよね。霊においては、最高、鉄壁な岩なんです。

ただ、その回りには、こってり肉的というのか、古い人間性が残ってるわけですよ。
ペテロも、また他の弟子たちもですが、聖霊を受けたら、それで100%完璧になったのか…というと、決してそうではないんですよね。

でも、それでも、あなたは岩だ。それでも、あなたはクリスチャン。
イエス様は、この岩の上に、わたしの教会、イエス様の教会を建てる、ハデス〜地獄の門もそれには打ち勝てないんだ。
…とおっしゃるわけです。

16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

カトリックでは、これをペテロ個人に語った言葉として受け止めています。
ですが、これと同じような話が、この後の18章、失われた一匹を探す羊飼いのたとえの後にも出てきているんですね。ですから、ここではペテロに、でも他の弟子たちにも、そしてそれは、キリストを信じる私たち一人一人に語られている言葉でもあるんです。

教会というのは、キリストを信ずる人の集まりで、神様との縦の繋がりであると同時に、人と人での横の繋がりでもあるとすれば、それを繋げといってるのか、解けといってるのかといえば…、もちろん、繋げです。
あなたがたはどう思うか。だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、九十九匹を山に残して、その一匹を捜しに出かけないだろうか…。

行かない。これが社会一般的な常識かもしれません。多少は探したとしても、弱い羊、群れについてこれないような羊は、あきらめる、むしろ、いなくなったほうが群れのために、いいのかもしれない…。
でも、わたしは、一匹とて失うことなど考えられない。ルカの福音書では、みつけるまで探すとまで言っています。
これが、イエス様の心、イエス様の生き様、十字架に向かうイエス様のスピリットなんですよね。

16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
ぺテロは、十字架を予告したイエス様をなだめて、怒られていますが、でも実は、この段階での、神の子キリストに対するぺテロの信仰であり、他の弟子たちも同じだったんです。

救い主キリストが、異国ローマの支配から救いだし、イスラエルを独立へと導いてくださる。だから、この段階での彼らがイエス様を信じるということは、これからエルサレムに上って行って、イエス様が王となるということでもあったんです。
だから、ぺテロにしてみれば、ある意味、信仰的に、いやいやあなたが負けるはずがありません…と答えているつもりだったんです。これが、このときのペテロの理解、限界です。

それに対して、「下がれ、サタン」とまで、きついことを言われてしまうわけですが、これは、ペテロがサタンに惑わされるというよりは、これから十字架に立ち向かおうとするイエス様にとって誘惑になりそうな言葉だったのかもしれませんね。
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

もし私たちが人の罪を赦す時、一方では、どうして赦すのか、それでは秩序が保てないだとか、人々の非難や責めが、赦した人へと移っていくことになると思います。
よく何かの事件の弁護士さんなんかが、報道陣に囲まれて、質問攻めになるときもありますよね。それでも、彼らは、決して、身代わりの刑罰まで受けるわけではありません。
しかし、イエス様は、本当に多くの罪人たちを赦し、宗教家たちから非難を浴び、さらには十字架までをも背負ってもなお、それを貫いていくんですよね。

弟子たちが、その十字架の最後まで着いていけたのか。決して、そうではありません。
それでも、ぺテロは他の弟子たちが一目散に逃げて行くなか、かなり頑張ったんですよ。
でも、できなかった。私たちもまた、実際に、同じ現場にいたなら、そうかもしれない。

それでも、あなたは岩。
イエス様が、本当に、ぺテロや弟子たち、そして私たちの心の岩に刻み付けてもらいたかったもの。
神は、リアルに、現実として、人を愛し、人を赦し、人を生かす神だということ。
それを、そこに生ける神の子としての生き方、生き様、いのちもあることを、十字架と復活の姿を通して、その心の岩に刻み付けて欲しかったのではないでしょうか。

私たちが、人を赦そうとするとき、それは時として、難しくなる時があるんですよね。
まさに、自分を捨て、自分の十字架を負うことになる。
でも、私たちは、痛みを負いきれなくて、どうしても赦せないことが出てくると思うんですね。それが、今の自分の現実、それは、それでいいんです。
それは、やっぱりイエス様だからできること。私たちには、イエス様の十字架までは背負うことはできないんですよね。

でも、イエス様は、それでも、あなたは岩だ…とおっしゃる。
私たちには私たちの、自分には自分自身の背負うべき十字架があるんだと思います。
人を赦し、人を生かす生き方…。その十字架を少しでも背負っていけたら、いいですね。


…あなたは岩です。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。
 ハデスの門もそれには打ち勝てません。

ラベル:マタイ 教会
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2010年12月25日

クリスチャン的景気回復 イザヤ43:18〜21

みなさん。おはようございます。
今年、最後の礼拝となりました。みなさんにとって、どんな1年だったでしょうか。

「クリスチャン的景気回復」なんて、サブタイトル付けてみましたが、まあ、世間一般的に言えば、不景気で、私もそのひとりなんですが、仕事をされている皆さんも様々な苦労も絶えない、家計をあずかる奥様はもっと大変じゃ…なんて方もいるかもしれません。

今日のイザヤ書のこの箇所は、いつの時期に書かれたか、様々な説もあるわけですが、
ただ希望を伝えている言葉ではなくて、神様から離れ、偶像に走り、結果、イスラエルの地から追われ、バビロニア(今のイラク)に囚われの身として連行されるか、あるいはすでに連行されたイスラエルの民に向けられている言葉です。

なんて言うと、なんだか、希望もへったくりもないな〜って気もするわけですが、でも、実は、今の日本の不景気も似たようなところがあるんじゃないのかな…と思うわけです。
イスラエルの民にとっては、かつて、モーセによってエジプトを脱出した出エジプトの出来事は、現実的な神の救いの証として、一つの希望の光でもあったわけです。

ところが、そのまさに紅海の海をわけ、イスラエル民を連れ出した、その神様が、
43:18 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。と、言うわけです。

なぜなんでしょう。
イスラエル民は、出エジプトをした神様に期待もしていたかもしれません…が、反面、昔はよかった…、あの頃は、神様が助けてくれたのに…、でも、今は助けてくれない…そんな風にも思っていたのかもしれません。
私たちは、どうでしょうか。
どこかバブル時代か、その前か、景気がよかった頃を思い出して、「あの頃は、よかった。」「でも今は、不景気で…」なんて風に、思ってはいないでしょうか。

私も普段、旅行業してるじゃないですか。聖地旅行の見積依頼もきまして出すんですが、そうすると「この不景気なのに、この金額では人が集らないんじゃないだろうか。」なんて言われちゃうんですよね。
いやあ、それで利益を削ったら、うちも不景気になりますから…とは言えないんですけど、業者の裏を話せば、安い物には、安いだけの訳もあるんですよね。一生に一度行くか行かないかのイスラエル、たとえ豪華ではなくても土地のものを味わい、ちゃんと見るものは見てもらいたいと思うんですよね。

確かに、景気はよくないんでしょう。実際、うちも仕事は増えても、利益は横ばいです。でも、これで「不景気」と言ってしまえば、さらなる景気低迷を招くように思うわけです。

ですが、本当に、日本は貧しいのか…。決して、そうではない。
世界的に見れば、圧倒的に豊かな国なんですよね。では、何を基準に不景気と言っているか、不景気だと感じているか…といえば、景気のよかった昔の頃と比較して、景気が悪い、不景気だと感じているに過ぎないんじゃないでしょうか。

まさに、バビロニアに捕らえられようとしている民に向かって、新しい出来事、新しい救いの業、言うなれば、昔の出エジプトではなく、新しい出バビロニアが起きるんだというわけです。
43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。

私たちの日常生活であっても、日が昇り、会社行って、学校行って、家事をして、日が沈む、日々、同じことの繰り返しのように思えてしまうことがあるのかもしれない。でも、実は、常に新しいこと。
私たちが、今日、生かされている、そこにある神の恵みと、明日、生かされて、明日、与えられる神の恵みは、まったく同じ、変わらないように思えたとしても、今日と明日では違う、常に、新しい恵み、新しい助け、新しい1日が始まって行くんですよね。

43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。
あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

神様が道を造られるというと、なんだかいいようですが、よくよく考えてみると、奇妙なことが書かれているんです。どうでしょう。皆さん。気づくでしょうか。
確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

荒野に道…なんですよ。ようは、そこを通る…ってことですよね。
申命記には、「蛇や、さそりのいる、恐ろしい荒野」なんて書かれていますが、実際に、荒野では、石をどければ、結構、蛇さん、さそりさんたちが、本当にいらっしゃるんですよ。あえて、荒野なんか、通りたくはないですよね。

でも、神様は、その荒野に道を造る、荒野に行け…とおっしゃるんです。なぜでしょう。

川を設けると言われても、そもそも年間降水量30mm以下ですから。普段は岩と砂で、見た目、まっ茶茶の世界。乾ききった土地です。
特に乾燥になれていない日本人が旅行をするときには、20分に一度は、水を含んでくださいとお願いするわけですが、そうしないと、肌からもどんどん水分が抜けていって、脱水症状を起こしてしまうんですよね。今の旅行なら、バスもあるし、エアコンもついてるし、水も積んでいます。でも、当時は、基本歩きです。荒野へ行きたいですか。あまり、行きたい場所とは思えないですよね。
でも、なぜか、神様は、荒野を通すんです。そこにいったい、何があるというんでしょう。

「人は、パンのみに生きるのではない。…」って御言葉ありますよね。

人が生きていくためには、パン以外に、何が必要ですか。
クリスチャン的模範解答で言えば、「神の言葉が必要だ。」…という答えにもなるのかもしれないですよね。でも、実際問題、みなさんが生活していくうえで、何が必要になりますか。何を必要としていますか?
とりあえず、パンと聖書一冊あれば、それで生活していけますか。
いやいや、そんなはずはないですよね。

これ、別に、意地悪で言っているわけではないですから。率直に、考えてみてくださいね。
模範解答を覚えることが、聖書を読むということではないんです。ぶっちゃけ、それだと建前…になりかねないですよね。本当のところ、生きていくために、必要になるものって、なんでしょう。いろいろあると思います。
まず、服。たとえ立派ではなくても最低限、着る服は必要ですよね。いらない…って人は、いませんよね。荒野とは違い日本は雨も降りますから、少なからず、屋根のある住む場所も必要ですよね。
衣食住、それらを得るためには、何が必要でしょう。
それらを得るためには、お金が必要ですよね。そのお金を得るためには仕事も必要でしょうし、買うためのお店も必要かもしれません。

ですが、これが荒野だったらどうでしょう。
「人はパンのみに生きるにあらず…」実に、これも荒野で語られた御言葉です。

年間降水量30mm以下の、乾ききった大地を想像してみてください。
その場所で、本当に、生きていくために必要なものって、なんでしょう。

パンよりも、まず、水が必要になります。出エジプトの民が求めたのも、まず水だったんですよね。パンだって、たとえ小麦粉があっても、水がなければ、作れないわけですよね。
別に、コンビニやお店があるわけじゃないですからね。
荒野では、どんなに、たくさんお金があったとしても、どんなにいろんなものを持っていても、もし、たった水一杯飲めなければ、もう生きてはいけないんです。私たちが都市文明で身に付けた余計なものを、一切無にしてしまうのが、荒野という世界なんです。

もちろん、食べ物も必要です。でも、荒野ではパン屋さんがパンを作ってくれるわけでも、小麦すらも何もないんですよ。そこで出エジプトの民には、マナという別のものが与えられた。ある科学者は、荒野に住むある昆虫の分泌液ではなかったかとも言っています。あるときには、鶉の群れが飛んできて、肉も与えられた。
荒野に、ひとたび雨が降れば、太陽はサンサンですから、1日か、2日かもすれば、植物たちが芽を吹き始めるんです。中には、薬にもなる草が生えたり、石鹸にもなる植物が生えたりするんです。植物があれば、そこに虫たちがやってくる。虫がいると、それを餌にする鳥や、様々な動物、それこそ野の獣、ジャッカルや、だちょうも訪れるようになっていくわけです。実に、あらゆる自然界の生命が湧きあがってくるわけですよ。そのためには、太陽も必要、雨も必要、大地も必要で、実に空気も必要です。

非常に厳しいとも、過酷とも言える荒野の世界では、限られた自然界のありとあらゆるのものが、人が生きていくために必要なものになっていくわけですよね。
それを実感できるのが、イスラエルの民にとっては、荒野という世界だったのかもしれません。

聖書では、神が言葉でこの自然界すべてを創られたと書かれているわけですが、この自然界全てのもの、全ての営みがあって、人は生きていける、生かされているわけですよ。
日本にいる私たちもですよ、この服だってそう。もとを正せば自然界にあるものから加工して造っているわけですよね。

それが、「人はパンだけで生きるのではない。主の口からでる全てのものによって生きる」という言葉の本来の意味。それを、まさにリアルに、実感込めて感じさせてくれるのが、荒野だというわけです。
43:20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
野の獣…ジャッカルや、ダチョウも、決して、あまりいいイメージの動物ではないですよね。でも、そんな彼らであっても、神をあがめている…と、イザヤは語るわけです。

では、私たちは、どうでしょうか。
日本には、水が豊富にあります、様々な動植物たちが生息し、木々も豊富、四季折々、いろんな食べ物が取れます。イスラエルに比べれば、圧倒的な豊かさのはずなんです。

…が、でも、実際、つい本音の部分で、「不景気」な言葉が出てきてしまうんですよね。
別に、模範解答は求めていませんから。本音でいいんです。私も旅行業、やってはいるけど、大変ですよ。弱気になったり、へこたれたり、ついつい愚痴の一つもでてきまよね。

実際、日本は、ものすごく豊かですよ。それは人間が作った経済社会はともかく、神が造った自然界を見れば…そうですよ。この自然界に対する感動、感謝、賛美が、どれだけ私たちのうちに普段あるでしょうか。。。いつの間にか、なくしていたりしません?
でも、実際、荒野に行くと、水の乏しい地で、アイベックス(野やぎ)の群れなんかが、50頭ぐらいの一家一族がずらずらと歩いてたりするんですよね。そんな荒野で生息する動植物たちの姿を見ると、実感として、俺なんか、まだまだ大丈夫、本当にそう思うんですよ。

不思議なものでして、神様を信じていなくても、聖書が言うところの神が造られたものを人は「自然」と呼び、人が作ったものを「人工物」もしくは「不自然」と呼ぶんですよね。
直感的に、人は「自然」「不自然」とに、ちゃんと分けているんですよね。

私たちは、命のない、コンクリートや、アスファルト、機械に囲まれた、あまりにも「不自然」な社会を作り上げてしまったのかもしれないですよね。
実に、不自然な社会で、不景気を感じ、心まで蝕んでいるのかもしれません。もう10年以上、年間自殺者3万人を超えていて、今年もほぼ3万人を超す見込みです。
このおかしさ、不自然さに、もう気づかなくてはならないんです。

荒野に行けとは言わないまでも、自然界に触れる、自然を見直す必要がわたしたち人間には、あるような気がするんです。
イザヤが強調しているのも、「わたしがこれを造った」創造の神だということなんです。

43:21 わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。
これは、昨年の年末もお話したことですが、正月、実家に帰ると、大体、夫婦で、初日を見に行くんですが、ぜひ、みなさんも、見にいける人は、見に行ったらいいですよ。

日本人の多くは、初日そのものを拝みにいってしまうわけですが、実は、その陽が昇るその姿に、直感的に「神」を感じ取っているからだと思うんですよね。
日本の場合、太陽そのもの、木そのもの、自然界の森羅万象その個々の中に、八百万の神々がいると勘違いしてしまったかもしれないですが、やれ偶像礼拝だとか、汎神論だとか否定しすぎるような気がします。確かに宗教的、神学的な誤りだとしても、パウロは、あらゆる被造物の中に、神の性質が現されている…と語っているわけで、その日本人の感性は、必ずしも否定されるべきものではないと私は思うわけですよ。

日本人が個々に神々が宿っていると思っていたところを、聖書では、その自然界の根源に、これらを造られた唯一の神がいるといっているわけです。
まだ暗く、寒く、冷え切ったところに、真っ赤に染まった太陽が、強烈な光と熱をもって、昇ってくる。決して、繰り返しではない、新しい1年、新しい1日の始まりが、そこにはあるわけです。それを肌で感じ取ってみてください。ご自身の目で目撃してください。

その太陽が昇り来る雄大な姿に、美しさを感じる。この太陽がなければ、私たち人間も、誰一人、生きてはないですよ。その熱と光によって、今日も生きている、今年も神に生かされている、鳥たちも羽ばたき、いのちの感動を感じる。すごいと思う。
それがまさに、この自然界を造られた神を「霊とまことによって賛美する」ってことになるわけですよね。

初日は無理という方も、ぜひ少しでもいいから、意識して、神が造られた自然界に触れるときを持ってみていただけたらと思うわけです。これらすべて、私たちが生きていくために必要なものとして、神が与えてくださっていることを感じ取ってみてください。

決して、クリスチャン的模範解答を覚えていくことでも、優等生になることでもない。
神が造られた自然界の恵みを感じ取り、それによって生かされていることを感じ取るとき、
野の獣、ジャッカルや、だちょうも、罪人であっても、神をあがめる。
リアルに、私たちの内側から、神の言葉が実現していくんです。

さて、皆さんにとって、新しい年はどんな1年になるでしょうか。
相変わらず、不景気のまま続くのでしょうか。それとも、大丈夫。日本は、ぜんぜん豊か。大もうけはできなくても、なんとかなる。そう思って、いけそうでしょうか。
私たちは、よく「新年を迎える」って言うじゃないですか。
ですが、まさに神様によって、今、新しい1年が始まろうとしているわけです。新年を迎えるのではなく、新年に向かって、景気よく、進んでいきたいものですよね。

…見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。
 あなたがたは、それを知らないのか。
 確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

ラベル:イザヤ書
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2010年11月06日

キリストの富 ルカ16:1〜18 (不正な管理人のたとえ) 

2010年9月26日 聖望キリスト教会

みなさん、おはようございます。

「暑さ、寒さも彼岸まで…」と申しますが、本当に秋分の日を過ぎたら、一気に冷え込みましたよね。
体の冷えは、体の免疫力を落とすらしいです。
ぜひ、みなさん、お体には気をつけていただきたいと思うところです。


●文脈から読み取る


さて、今日の箇所は、非常にわかりにくい箇所ではないかと思います。

以前、Oさんからですね、
「ここの箇所、まったく意味がわからないよ。次のメッセージでやって」とリクエストを受けまして、
正直、そのとき私自身も、このたとえ話の意味は、まだ、わからなかったんですよね。
おそらく、私やOさんだけではないと思います。

でも、わからないままというのも癪なんで、今日は、この箇所に挑戦しようというわけです。

まず、この不正な管理人のしたことは、120%不正、ズルです。
ところが、「不正の富で、友を作れ」だとか、「不正の富に忠実でなければ…」だとか、
イエス様が、あたかも不正を薦めるかのような発言に、私たちの頭は???になってしまうわけですよね。

聖書の注解書を見ても、まず「非常に難解な箇所」などと書かれていまして、
そんなことは、わかっとるわい!と言いたいところなんですが、
その解釈は、注解書によって、それぞれ違う…それくらいの箇所なんです。

決して、イエス様が不正を薦めているわけではなかろう…ということから、
たとえばですね、不正な管理人が書き換えさせたのは、自分の取り分や利息であって、
実は主人に損はさせていないんだとか…?
苦しい言い訳のような、まるで、イエス様の話を弁護でもするかのような、そんな解釈もあります。

いやいや、でも、最初の使い込みから考えれば、不正は不正、ズルはズルなんですよね。

また、ある注解書では、
「『不正の富』とは『この世の富』のことで、『まことの富』とは『神の国の富』のことを指す」とも
書かれています。なるほど、わかりやすい、そんな気もしますよね。

ですが、13節になると、
「…あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」と出てくるわけですよ。
結局、この世の富に忠実であるべきなのか、そうではないのか、わけがわからない。
これでは、Oさんからも、「結局、どっちなのよ!」って突っ込みをいれられてしまいそうです。

どんな文章であっても、一文の意味は文脈、前後の文章によって決まります。
これが文章読解の大原則です。
もし前後の文脈と、つじつまが合わないとしたら、その理解は間違っているといえますし、
逆に、文脈から切り離した瞬間、いろんな解釈も生まれてしまいます。

ですが、聖書って、案外、一部分だけを抜き出して、読むことが多いと思うんですよ。
それで、つい、わからない箇所ほど、視野が狭くなって、前後が見えにくくなってしまうのかもしれません。

しかし、聖書の一章一節も、あくまで前後の文脈、極端な話、聖書66巻全体の流れの中で読み取る必要があるわけです。

実に、私たちがわからないのも、決して「不正の富で、友を作れ」という日本語そのものの意味ではなく、
文脈の流れが通らない、わからなくなっているのではないでしょうか。

たとえば、もし、この時に登場しているのが、悪魔で、誰かをそそのかして「不正の富で、友を作れ」と言っている話なら、なんだか、すんごく、わかるような気がするじゃないですか。
ところが、なぜ、この時、イエス様が、こんなことを語ったのか、そこが、わからない。
それを教えてくれるのも、あくまで聖書本文、前後の文章、文脈ということになります。

文脈を読むというのは、単に言葉や文字の意味を追いかけることではありません。
前後の文章を手がかりに、その時の状況や、背景を探り、なぜ、このようなことが語られたのか、その意味を探る…、言い換えれば、キリストの心を読むということになるわけです。

そこで、今日は、このたとえ話の解釈、意味だけを追いかけるのではなく、このわからない箇所を、文脈から読み取る…、その読み方まで一緒にみていただければと思います。


●たとえ話の背景

まず、この話は、いったい、誰に、どういった状況で話されたことでしょうか…。
そこから見ていきますが、16章1節には、「イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。…」と出てきます。
「にも」ということは、まだ、その他に前がありそうですよね。実に、この話は、その前の15章から始まっているんですよね。

15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」

度々出てくる話ですが、主イエスの周りに罪人たちが集まってきて、一緒に食事をしていたわけですね。
ユダヤの世界で、一緒に食事をするのは、和解や赦しを意味していますから、もうこの時点で、イエス様が罪人たちの罪を赦しちゃっていることになるわけです。
それをパリサイ、律法主義者たちが、神を冒涜しているだの、律法を無視しているだの、あれは罪人の仲間だの、いちゃもんをつけている、まーよくある場面です。

15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。

そこで彼ら…というのは、パリサイ派、律法学者でしょう。彼らに、語られたのが、超有名な3つのたとえ話。
・迷える1匹の子羊を捜し求める羊飼いのたとえ。
・なくなった銀貨一枚を見つけて、尋常じゃない喜び方をする女性の話。
・最後に、いなくなった放蕩息子を大喜びで迎える父親のたとえ話。

あなたがたは、天の父を誤解している…。迷った一匹の子羊も、なくなった1枚の銀貨も、どんなアホな放蕩息子であっても、戻ってきたら、喜んで迎える神なのだ。
どれも福音中の福音、代表作ともいえる、たとえ話3連発です。

そこに加えるかのように、
16:1 イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた…。というわけです。それが、今回のたとえ話となるわけです。

状況、場面は、わかりましたでしょうか…。
まず、主イエスがいて、そこに集まってきた罪人たちがいたわけですね。一方で、それを非難するパリサイ派、律法主義者たちがいたわけです。
その状況の中で、弟子たちにも語られたのが、このたとえ話というわけです。

●何が「不正な富」なのか


さて、いよいよ、このたとえ話を見ていきますが、
不正な管理人が、その使い込み、不正がばれたというんで、さらに不正を働いて、身を守るために主人が貸した負債者の証文を書き換えちゃうんですね。
これを、文字そのままに実践すれば、立派な業務上横領で逮捕されます。永遠…とはいいませんが、刑務所に1年くらいは迎え入れられて、お友達ができるかもしれません。

ですから、この管理人のしたことは、その前の使い込みも含めて、本当に120%の不正、立派な横領、犯罪なんです。

ところが、この主人は、この120%「不正」を赦すばかりか、抜け目なく、ようやったと、ほめたというんです。ここが、わかりにくいところ。
おまけに主イエスは、弟子たちに、「不正の富で友を作れ」とまでいうわけですよね。なんなのか…。
でも、これは、たとえ話ですから、何かのたとえとして、話しているわけですよね。

そこで注目したいのは、
いったい何を例えて「不正な富」としているのか…、実際には何を指しているのか…なんです。

実は、この時、この場面で、「不正」とされていたことがあるんです。なんでしょうか…?

まず主イエスが一緒に食事をしていた罪人たち、取税人たちに不正があったかもしれません。
彼らはローマに納める税金以上のものを取り立て、それを自分の利益にしていたわけです。

そしてさらには、主イエスがその罪人たちと一緒に食事をする、罪を赦すということ…、
実にパリサイ派、律法学者たちにとって、これこそ、まさしく120%「不正」極まりない行為、できれば石で撃ち殺したい、やがては本当に十字架に展開していくほどの「不正」だったんですよね。

何が正しく、何が間違っているのか…というものは、ものの見方、立場が変われば、まったく逆になってしまうことがあるものです。
それを裏付けるように、この話のあとにも、またパリサイ派の人たちが登場してくるわけです。

●背後にいるパリサイ派


16:14 さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。

彼らからすれば、そんな馬鹿な主人がいるかよ…、そんな話に聞こえたかもしれません。
ルカは皮肉も込めて、「金の好きな…」と書いていますが、彼らは、それこそ、この世の富には、ものすごく忠実だったんでしょう。
ここでも「不正の富」を、「この世の富」としてしまう解釈は違うことがわかります。

16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。」

ここに、主イエスのパリサイ派に対する反論、主旨があるわけです。
彼らは、自分を正しい者として、罪人たちや、その罪人を赦す主イエスを非難していたわけなんですよね。つまり15章のはじめから、この一連の話はまだ続いているわけなんです。ここに、文脈で読む大切さがあるんです。

16:18 だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。

もし、この一文だけを抜き出して読んでしまうと、離婚して再婚するのは、罪。姦淫だということになってしまいます。
似たような箇所から、クリスチャンは離婚もしてはいけない、離婚した人がなんだか肩身の狭い思いをしてしまうようなこともあるんですが、実は、これがまったく違うことを意味している一文としたら、みなさん、驚きますか?

それが、文脈なんです。
なぜ、ここで、いきなり離婚だの、姦淫だの、そんな話が出てきたんでしょうか。あまりにも唐突で、話の流れが見えてこないですよね。なぜでしょう。

この時、主イエスの周りには、思いっきり姦淫の罪を犯してきた罪人たちもいたからではないでしょうか。

まず、有名なのは、マグダラのマリア。
彼女は遊女、売春婦の一人だったといわれています。彼女の売春婦仲間も集まっていたのかもしれないですし、その他にも、主イエスの周りには、多くの遊女たちが来ていたようです。

また、別の箇所では、バツ1、バツ2どころじゃない、バツ5で、現在、別の男と同棲中のサマリアの女性にも、主イエスは声をかけています。ですが、決して、あなたのしていることは姦淫だとか、あなたは神に忌み嫌われている…なんて言わないわけですよ。
むしろ逆です。
彼女は、同じサマリア人の目をも避けるように井戸に水を汲みに来ていたわけですが、
その彼女に「わたしが与える水を飲むなら、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」…そう語られたわけですよね。

また、あるときには、姦淫のまさにその現場で捕らえられた女性が、主イエスの前に連れてこられたこともありました。
そのときに、イエス様は何ていわれたでしょう…。

「あなたがたのうち、罪のないものが石を投げなさい。」

いいでしょうか…。
主イエスの周りには、離婚、再婚どころではなく、まずリアルに正真正銘、姦淫の罪を犯してしまった女性たちもいたんです。もちろん男性でもいたかもしれません。主イエスは、そういう罪人たちとも、食事をしていた、赦していたんですよね。
パリサイ派の人たちは、そういう罪人たちを、どうして赦すのか、それは神に対する冒涜、120%「不正」だと、非難していたんです。

それに対して、「いやいや、お前たちの仲間にだって、罪人はいるだろう。」

16:18 だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。

彼らの間では、離縁状さえ渡せば、奥さんと離婚して、ほかの女性と結婚できる…、
もともと他人の奥さんであっても、旦那からちゃんと離縁状さえもらえば、結婚できる…、
ちゃんと離縁状さえあれば、それは罪ではない、「正しい」ということになっていたんです。
いやいや、それだって、同じようなものでしょ…という話なんです。


決して、離婚も再婚もしなければ、正しいということではないですよ。
主イエス、神様の目から見たら、情欲を抱いて異性を見るなら姦淫も一緒、
兄弟に向かって愚か者というなら、人を殺すのも一緒、
夫婦で喧嘩しているなら離婚も一緒ということになるのかもしれない。
私たち人間には、誰しも、その心のうちに、同じような罪の要素はあるわけですよね。

「あなたがたのうちで、罪のない者から石を投げなさい。」

これこそが、イエス様の真意、イエス様の心なんです。

いいでしょうか…。
主イエスは、離婚や再婚を非難しているのではなく、自らを正しい者として、取税人や遊女、罪人たちを非難していた、パリサイ派の人々の「正しさ」を否定しているんです。

なんてことをいうと、このキリスト教の世界では、竹下は離婚を肯定しているという非難もありそうな気もするんですが、
罪を赦す、その負い目を取り除くということ…。
イエス様も、そのために神を冒涜しているとか、「不正」だとか、数々の非難を受けていたんですよね。

●不正の富で友を作れ

イエス様が十字架を背負い、この世を離れた後、今度は弟子たちが
「なぜ、罪を赦してしまうのか。それは不正だ。」
こういった非難を受けていくことになるわけですよね。
だから、パリサイ派を前にして、弟子たちに言われたんです。

 人は、いろいろというかもしれない。非難を浴びるかもしれない。
 しかし、不正の富で、友を作れ!

言い変えるならば、「罪を赦して、友を作れ」、「十字架の富で、友をつくれ。」
弟子たちに向けた、激励だったのではないでしょうか。

あくまで、このたとえ話で、管理人のしていることは、本当に不正です。
だから、これをそのままに真似したら、逮捕されます。罪は罪なんです。

しかし、この主人が、管理人の不正を赦すことは、「不正」でしょうか…。
そうではないですよね。
だとしたら被害者でもない、外野である人間が、とやかく言う必要もない話ですよね。
もし、この主人が、本当に赦すんだとすればですよ。

その代わりにこの主人は、管理人が不正を働いた損失分を、自分自身が負うことになるんです。
神は、実に、そのひとり子を与えるほどに、世を愛された。。。
事実、イエス様は、取税人、遊女、私たち人間のあらゆる「不正」、その罪を赦した代わりに、
きっちり十字架を背負って、その非難、負い目、負債を肩代わりもしたわけですよね。


実に、私たちこそ、「不正な富の管理人」みたいなものなのかもしれませんね。

今朝も主の祈りでも、こう、お祈りしましたよね。
「私たちの罪を赦してください。私たちも人の罪を赦しますから…。」


ここで、私たちには、罪があります。不正がありますって、告白しているんですが、
でも、私たちには、人の罪が赦せないようなことも、でてくるんですよね、これがまた。

決して、自らを「正しい者」とする必要はないんですよ。
正直でいいんです。
実際に、赦せないことって、あると思うんです。


小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実…ともあるわけですが、
人を赦すということ、友となるということ…。
小さいことようで、実は難しく、本当に、もしできたとすれば、非常に、大きなことなのかもしれませんね。

特に、自分自身が直接的な痛みを受けてしまったようなことは、なかなか、どうして、赦すことは難しい。
私たちには十字架までは背負えない。
それが私たちの限界でもあり、それもまた、私たちの罪といえるのかもしれないです。
でも、その「人を赦せない」という罪も、また赦されている罪の一つです。


罪とは、的外れ。人生における数々の失敗といえるでしょう。
誰しもが、多かれ少なかれ、負い目を負っていくことにもなるんです。
その罪を赦す…というのは、その罪を「正しい」とすることではなく、その負い目を取り除いてあげるということなんです。
しかも、その代償は、主イエス自らが、十字架によって支払ってくださるというわけですよ。

この主イエスの十字架のゆえに、人を赦すということ、友となっていくということ。
この十字架の富に、抜け目なく、忠実に、大切にしていくということ。。。

お金や財産といったこの世の富も、私たちにはある程度必要だし、力にもなるものですが、
本当に壁にぶつかった時、ピンチの時、私たちを助け、励まし、
私たちの人生を、本当に豊かにしてくれるのは、お金よりも、まさに「友」という存在ですよね。

もし、この十字架の富に忠実でなかったら、まことの富を任せられるだろうか…。
あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。

そのようにしてできた、まことの富、本当の「友」という存在、まさにこの仲間ですよ。
それは私たちのものである前に、キリストの友であり、神の家族なんですよね。
それは、この世の生涯ばかりではなく、永遠の神の国にまで繋がっている、本当の財産になっていくに違いないのです。

これこそ、私たちに与えられているキリストの最大の富であることには間違いですよね。
この十字架の富を、抜け目なく、忠実に、大切にしていきたいものですよね。

posted by holyhope at 19:44| Comment(7) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月05日

2011年イスラエル聖地旅行のすすめ

荒野に生きるアイベックス私は旅行業を営みながら、伝道師として活動しておりまして、

いきなりですが…

聖書の舞台、イスラエルに行って見ませんか?

聖書がどこか、昔話か、現実離れしているように感じてしまうことはないでしょうか?
教会や信仰生活が、どこかリアルな自分と離れている…なんて感じたことありませんか?

単なる史跡や教会を周って、有りがたがるのが聖地旅行ではありません。

荒野に生きる動植物たち、ガリラヤ湖畔ののどかさ、地中海の青さ、エルサレムの雑踏…

ガリラヤ湖 山上の説教の丘より−ことばは人となり、私たちの間に住まわれた…!!

イスラエルの大地を踏む時、生きた聖書の世界が見えてきます。

【にこまるツアーの特色】
・内容充実。無理のない、ゆっくりめの行程で周ります
・死海の5ツ星リゾートホテルと、ガリラヤ湖のキブツホテルは、プライベートビーチ付。
・聖書に出てくるイスラエルの特産物も味わいましょう

■2011年 3月1日(火)〜3月11日(金)
エルサレム嘆きの壁榊原寛先生 主イエスの足跡を巡るイスラエル11日間

 ・聖地旅行に精通した榊原先生の楽しいお話付!
 (村上宣道先生も参加されます)

 旅行代金 成田発着 ¥358,000※
 ※空港諸税、燃油料等別。
 最少催行人員 25名様 (11月末日締切)
 
■2011年 3月15日(火)〜3月25日(金)
北本福音キリスト教会 イスラエル聖書の旅11日間

 ・北本福音キリスト教会の皆様でのアットホーム的な旅行です。外部からの参加も受付しています。

 旅行代金 成田発着 予価 ¥348,000 ※
 ※空港諸税、燃油料等別。参加人数の最終調整中です。
 最少催行人員 15 名様
 (外部から参加受付 お問い合わせください)


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いろんな笑顔、描きたい― にこまるツアー

東京都台東区台東4−30−8 宮地ビル本館7F
TEL (03)5812−7080
FAX (03)5812−7085

イスラエル専門サイト http://www.nikomaru.jp/acts/
株式会社HMC 東京都知事登録旅行業第3-3609号
――――――――――――――――――――――――――

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